70代の友人との四方山話
今日は家の近くで、友人(以下Aさんとする)と話をしていた。
カフェのテラス席に座っていて、途中で雨がざあざあと降り出して、話に夢中になっていたら、すっかり身体が底冷えしてしまった。さっきお風呂に入って、身体を芯から温めて、その話を回顧しながら久しぶりに記事を書いてみる。
まず、待ち合わせをする段階で、メールで「今日は何時ごろ終える予定ですか?」と訊いた。Aさんから言わせると、それはマナー違反だという。「普通その問いは、早く帰りたい表れだと捉えられる。僕はそっちに行ってもいいのか心配になった。」と言う。私は素朴に目安の時間が知りたく他意なく訊いたつもりが、不快にさせてしまった。
自分はやはり、隠喩とかそういうの関係なしに、この世の社交辞令とかお世辞、建前のようなものが解ってないのだと思う。自分の人生観のなかでその意識が希薄なのだと今日改めて痛感した。
続いて、会う前のメールにて。Aさんは芸術の造詣が深く、全国各地様々な美術館の催しを把握している。それが素直に凄いなと思い、「流石Aさんですね。」と尊敬の念を込めて言ったつもりが、その回数がAさんの体感として多かったらしく、「美術館の催し程度で流石とこの歳で言われたら、却って馬鹿にされたような、悔しい気持ちになる。」と言われ、やはりここでも自分と世間のズレに落ち込んだ。
そのままAさんは、「あなたは損をしている。度が過ぎた真面目。クソ真面目。生真面目は接していて人が疲れる。なんでも論理的に話す必要はない。せっかくの関係性もお互いが疲れたら消滅してしまう。もう少し、気楽に厚かましく生きないと。あのBみたいに。」そう、あのBとは、共通の知り合いで、その人も70代の方でいま一緒に働いているのだが、以前セクハラを受けたということもあり、折り合い悪くしているのだった。Bさんは、まぁたしかに形容される部分があるように感じる。私はそこを羨ましく感じていた。
「あなたは、若くて美人だから、逃れられない部分がある。」とAさんは言うので、「私ももう〇〇歳ですよ。」と答えた。
それからAさんは「あなたは、人を褒めすぎる。言われたほうは、却って自分をみすぼらしく思う。もう少し対等性を持たないと。君と僕は似ている。損をしやすい。色々なことを気にしすぎるな。遠慮がちになるな。」と、Aさんは続いて老婆心で訓えてくれる。
たしかに、対面の際はノンバーバルな側面に気を取られ、色々と気を遣いすぎてしまうかもしれない(もっとも、人によるけども)。昔から「気を遣いすぎてこっちが疲れる。」と誰彼に口酸っぱく指摘されるのだが、どうにも治せない部分で、恐らくこれは性分なのだと思う。
あと、人を褒めるのも素朴な思いからだったが、どうやら内外的にも自分のコアな部分にある「肯定性」が足を引っ張っているらしいことに、Aさんのご指摘で、より浮かび上がってきた。
今日はいつになく、ご指摘をいただいてしまった。しかし、自分と似ている部分がもどかしく感じたのかもしれない。自分の人生が残り少なくなると、継承する気持ちが芽生えるのだろうか。エリクソンの発達段階という理論に、そういうものがあった気がする。
あとは、純粋に私の世間知らずさ。やはり、人からの跳ね返しがないと、自己を確認することができない。その意味でも、他者性なしで人は生きることができない。
ともあれ、Aさんのその老婆心でいろいろと訓えてくれる気持ちが、何より嬉しい。今日もまたいつも通りに会えて本当に良かった。いつものリュックサックに、いつもの話し方。あとどれくらい会えるか分からないけれど、稀有な知り合いなのでどうか長生きして欲しいと、切に願っている寒い夜。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?