言語学について①

・2021/3/31 寄稿 

 ええっと、隠喩交流というのは全くの象徴的言語で、分かりやすくした共通言語としての造語です。いまからはその定義を分解していきますね。これはある種構造主義的な考えで、表層に立ち顕われてくる言語を、深層との媒体としてのメディア(media)として捉え、暗黙裡の交流を行っていくということ、つまり隠喩表現として二重言語のコミュニケートをしていくということ、というふうに定めて展開していきますね。言語学論として言い換えるならばヤコブソンでいう「コミュニケーション論」、クロード・シャノンの「シャノン・モデル」、ロラン・バルトなら「記号論」にも変換ができるかと思います。

 そこでは文字通りメタファーやメトニミーを主軸としています。具体例を挙げるのであれば〈 世界中が皆、ハトになるにはどうすればいいだろう? 〉という文体があるとします。これは一見、意味が解らない。原理的に世界にそんなにハトは分布できないし、ハト以外の生物も存在するから、食物連鎖によってハトがハトせしめている。いきなり世界がハトに衣替えしたら、たとえばタカはどうやって生きていくんだ?という話にもなる。ただ飽くまでこのコンテクストというのは、〈 ハトは平和の象徴だから、世界が平和になればそりゃいいけども、本質的に平和とはなんだろう。そもそも平和になれば良いことなのか。誰かにとっての平和は、別の人の哀しみを意味するのではないか。〉のような、いわゆるシニフィエとして意味を内在していて、「記号」として共通言語があれば、翻訳可能なんですね。

 何やら小難しそうと思われるかもしれませんが、私たちは至るところで隠喩交流を行い目撃をしています。たとえば私が「直感的」に感じ取って交流を試みたように、人々にはア・プリオリなものとして備わっています。意味や言語、あるいは表現への問いは、プラトンやアリストテレス以来の問いでもあるのです。例をあげるなら、映画を観て物語を追うとき、詩や小説を読んで隠喩表現に触れるとき、そこでは数分前のやり取り、あるいは何頁か前の表現はこうした深い意味があるのだ、ということを「記憶」します。記憶のまとまりで、コンテクストを「解読」することができます。ソシュールが「記憶によって形成された潜在系列に在るもの」と形容したように、ソシュールの意味の「記憶」が必要で、そのコンテクストとコード(すなわちラング)を追うことによってパロールを分解し、隠喩が詳らかになっていくのです。

 たとえば「あれ、この映画でのAとBは、何か意味があるような言動をしているけれども、肝心の部分を寝てしまい見逃してしまったようだ。」というご経験は、皆様にもあるのではないかと思います。これは記憶がないのでコンテクストが合致しない。逆にいえば、その肝心の部分までその「伏線」を見ておけば、記憶とコンテクストやコードによって解読をし、物語を理解することができるといえます。私が以前、物語あるいは私小説として記述した部分では、記憶を頼りにコンテクストを追いかけて、何とかかんとか交流をつないでいきました。上記ではひとまず、そうしたロジックをご説明させていただきました。
    

引用文献:石田英敬『記号の知/メディアの知―日常生活批判のためのレッスン』東京大学出版会

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