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「そよ風の誘惑」はそよ風でも誘惑でもなかった

この記事のテーマは、オリヴィア・ニュートン=ジョンが1975年に放った大ヒット曲、「Have You Never Been Mellow」の歌詞である。当時付けられた邦題が「そよ風の誘惑」。今でも電話の保留メロディに使われるほど有名な曲だから知っている人も多いだろうけど、聴けば納得、まさにそよ風に誘われて、という感じの曲調。

こんな感じだから、歌詞の内容は当然ラブソングだろう、心浮き立つ春の風に誘われて、わたしと恋してみない?みたいな(何のこっちゃ)と長いこと何となく思っていたが、よく聴いてみるとどうも様子が違うのである。まず、この曲のキーワードとして「mellow」という単語がある。日本語で「メロウ」と書くと「メロウなR&Bチューン」みたいな使われ方が多くて、「甘美な」といったちょっと色っぽいニュアンスが付いてくるのだが、英語での意味はもっと広くて、「落ち着いた」「くつろいだ」という語意もある。この曲での意味合いは完全にこちらであり、タイトルを直訳すると「あなたはくつろいだ気持ちになったことがないの?」となる。本当ならここで自分の訳詞を紹介できればよかったのだけど、もう他人の訳や解釈をしっかり読んでしまったので、自分ではできない。音楽関連の書籍翻訳を手がけるプロの方が書かれた、とても参考になる記事を紹介するにとどめる。

「そよ風の誘惑」の歌詞を詳しく読み解くと、実はラブソング要素はゼロ。くつろぐ余裕もない生活を送る忙しすぎの現代人に、ちょっと立ち止まって落ち着きましょうよ、と呼びかけた純然たるメッセージソングなのである。

一昨年に出会った、ジュリアナ・ハットフィールドによるオリヴィア・ニュートン=ジョンのカバー集にも当然この曲は収録されていて、とても気に入って何度も聴いていた。その頃の自分のメンタルはどん底にあって、この歌詞のことをずっと頭の中で繰り返し考えた。自分は落ち着いた気分になったことがあるのか、心の内から湧き上がる穏やかな気持ちに包まれたことがあるのか、あったらそれはいつのことだったのか……全然思い出せなかった。心の中は激しい不安感でいっぱいで、いつでもギンギンに緊張していて、落ち着いた気持ちには一刻たりともなれていなかった。考えてみれば自分はいつだってそうだったのだ。どちらかといえば落ち着いた方の人間だと思っていたが、心の内をよく見直してみたら全然違った。ひどくせっかちなワーカホリック、というのが本当の姿だった。ちょっと時間に余裕ができれば仕事を詰め込もうとするし、仕事が少しでも途切れれば激しく不安に苛まれる。空いた時間があったとして、どうやって休んだらいいのかわからないという始末である。だから、この歌詞には少し胸が痛んだ。

メンタルは当時よりだいぶましになったが、この問題は今でも続いている。寝る前にレコードをかける時間が、今の自分にとっては唯一「mellow」になれるひとときなのかもしれないが、くつろぎすぎてすぐに寝落ちしてしまうし。大好きな音楽を聴くだけでハッピーになって、内から湧き上がる心地よさを感じて、「強い人」でいることは他人に任せて……そんな風になれたら、長生きしてもいいかな、と思えるんだろうな。

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