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今朝の気づき(いそしぎ)

「気づき」とか「学び」とか、ちょっと違うけど「見える化」とか、動詞を変に名詞化した日本語が流行るようになって久しい。「癒し」が先駆けだったのだろうか。決して好きな表現ではなく、自分の書くものに使うことは滅多にない。ならばこの記事タイトルは何なのかということになるが、たまにはいいかと思って軽い気持ちで書き込んでしまった(最近、記事を書く際にタイトルを先に入れることが多い)。ちなみに1960年代に「いそしぎ」という邦題の映画があって、その主題歌が有名なので自分も映画の名前だけは知っているのだが、なぜか「いそしぎ」とは「安らぎ」とか「悲しみ」みたいに「いそしぐ」という状態を表す言葉の名詞形であるように思っている人が多いようで、何を隠そう、かつての自分もそうだった。その語感と主題歌の印象から、よくわからないが恋人と過ごす何やらアンニュイな状態なのだろう、と想像していた。しかし実は、その映画の原題が「The Sandpiper」という鳥の名前であり、「いそしぎ」とはその和名。磯に生息するシギ科の鳥だったのだ。Twitterだったかで知ったときには、えーっ!と思った。

Wikipediaより、いそしぎ(鳥)

さて、今朝気づいたことは「いそしぎ」の真の意味ではなくて、自分の現状に関することだった。現在、抗うつ薬の減薬を進めていて、今のところはこれまで続けていた量の半分を毎朝服用している。とりあえず大きな問題はなさそうだ。前回減薬を試みたときは、週末に薬を切らしてしまって酷い目に遭ったのだが(当時書いた記事はこちら)、毎日しっかり飲んでいればひとまず支障なく暮らせている。まだまだ時間をかけて慎重にやった方がいいとのことなので、焦らずゆっくりと脱・向精神薬への道のりを進んでいこうと思う。

しかし、とりあえず問題なしとはいえ、やはり100%正常とはいかないようで、何だかおかしいな、おかしいな、と思いながら日々過ごしている。仕事も家のことも、まあまあこなせてはいるのだけど。この違和感は何だろうとずっと思っていた。今朝気づいたのは、今の自分はひとつひとつのタスクは正常にこなせるが、それを全体的に統括する能力が弱っているということ。何か作業を進めていて、ほかにもやるべきことがあった気がするなあ、何だっけなあ……と思いながら、そのまま続けて、後になってその「やるべきこと」を思い出したときにはもう手遅れ、みたいな状況が結構あるような。それが仕事だったら大変で、現に「あの、納品はまだでしょうか……」という連絡を受けて初めて、その仕事がぽっかり頭から抜け落ちていたことに気づいたことが一度あった。幸いそれは小さな案件だったから、先方に平謝りしつつ光の速さで仕上げて、壊滅的な状況には陥らずに済んだが、ほかにもヒヤリとする状況には何度もなっていて、ド深夜まで無理して埋め合わせの作業をしたりしている。個々のタスクをこなす自分の上に、もう一段高いところから全体を監督する自分、というのが本当は必要なのである。普通の人ならそれを難なくこなせているはずなのだが、今の自分には決定的にこの能力が不足している。

現に、この記事を書きながらも、ほかにもっと優先してすべきことがあったはずだ……と思っている。仕事は少し時間に余裕があるはずだし、確定申告は昨晩も確実に先に進めた。それでも何かぽっかりと脱けてはいないか、と漠然とした不安を常に感じているのだ。本当に自分の脳みそはたった1個しかないので、これが不調になっても替えは効かない。去年の冬にもまったく同じようなことを自分は書いていて、状況が1年前からほとんど変わっていないことがわかる。やれやれ。時間がかかるなあ。以下の記事、旧ブログとnoteの狭間の時期に上げたもので、多分ほとんど読まれていないと思うので、よろしかったらこちらも読んでくださると筆者が喜びます。


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