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インド日記:ダルミストからポメロを買う

この日記には仏教、ヒンドゥー教、イスラム教が出てくる。インドは宗教がなければまったく成立しない国であって、「無宗教」という概念はそもそもインド人にとって理解の範疇外という感じだった。無宗教?それって一体どういうこと?という。現代の日本人は「宗教がなければテロや戦争もなくなるのに」なんて言い方をしがちだけど、それは「世界に人間さえいなければ戦争は起こらない」と言っているのとほぼ同義ではないかと自分には思える。

学校から駅までの道は野菜市場となっていて、普通の八百屋では手に入らない白菜、ズッキーニ、ブロッコリーなどの野菜が買える。最近お気に入りのポメロという巨大な柑橘類もこの時期には出回っており、これを買いに学校帰りに市場に寄った。ここでいう市場とは商店街の道の両側にずらーっと露天商が並んでいるところだ。最初にポメロを見つけた店でどれが良いか(重いものほど果汁があって良い)選んでいると、店の親父さんが話しかけてくる。曰く「君はブディスト(仏教徒)か」

日記に出てくる市場で後日撮影した写真

こういうときは「その通り、私はブディストである」と答えることにしている。そうすると向こうは、こちらが坊主頭にしていることもあり、「そうだろうな」とすごく納得した顔をするのだ。こういうところで「いいえ、私は無宗教です」とやって話のチャンネルをぴしゃりと閉じてしまうのもつまらないし、仏教には興味もある。日本とインドを深いところで結ぶ共通のルーツだ。機会があればインド仏跡巡りもやってみたい。

坊主頭の日本人がブディストだと聞いて納得した様子のおやじさんは、ブッダム・何とか・ガッチャーミという仏陀のマントラを唱えだして、「私はダルミストだ」と訳の分からないことを言い出す。ダルマ信者?「ダルミストってどういう意味?」と問うと、おやじさんは英語で何がしかをばばばっと説明しだしたのだが、全然理解できず。いいかげんなブディストが「ダルミスト」と宗教談義をするのは無理があるようだ。おやじさんは多分ヒンドゥー教徒だろうが、ダルマとはヒンドゥー教にも仏教にも共通の言葉で「法」という意味だ。我らが仏陀はヒンドゥー教にも神々の一人として組み込まれている。要するに、俺の宗教もあんたの宗教も根っこは同じなんだよ、と言いたかったのだろうか。

そのうち突如、俺の腹を殴れ、という手振りをしてきた。何だか分からないが言われるままにどすんと叩いてみると、ダメだ、もっと強く、深くやれと言う。お腹を何度も殴ってみるがまだ納得しない様子だ。そのうちどこから湧いて出たか若者たちが周りに集まってきて「もっと強く」「マラマール!(ぶっ叩け)」などと言い出す。果物一個買おうとしただけなのに、どうして若者に囲まれながらおやじさんのお腹を殴り続けなければならないのか。何か修行の成果でもアピールしたかったのか?結局その意味は謎のまま、市場を後にして電車に乗り込んだ。

上と同じく後日撮影の写真。この市場を抜けるとすぐに駅があった。

電車はいつもどおり混雑していたが身動きが取れないほどではなかった。一人の若者が携帯で音楽を聴いている。といってもイヤホンから音漏れというレベルではなく、スピーカーからガンガン音を出して聴いているのである。日本の電車のように密閉された静かな空間ではない、開け放しのムンバイ・ローカル電車ではこれぐらいのことは当たり前。そればかりか曲に合わせて調子外れに歌ってすらいる。歌を聴くと「アッラー」「ムハンマド」という言葉を連発しており、イスラム教徒がその主を讃える歌であることは明らかだ。今はイスラム教の重要な年中行事、ラマダーン (断食月) の時期である。彼の信心も高まっているのだろうか。延々と単調な歌を流し、歌い続ける。車内の他の乗客は、大半がヒンドゥー教徒だろうが、不快指数100%の蒸し暑い満員電車で、特に迷惑そうな素振りも見せず勝手に歌いたいだけ歌わせている。近ごろ頻発している、過激派による爆弾テロ事件の影響で、インドのイスラム教徒はますます肩身が狭くなっている、という新聞報道を読んだばかりだが、少なくともこの車内では、この若いムスリムは心ゆくまでアッラーを讃えることができたようだ。

バンドラ駅で電車を降りると、別の車両ではちーん、ちーんという鈴の音とともにヒンドゥー宗教歌の大合唱。これも時々見る光景だ。

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