食べることは生きること
blue egoistにおける「食」の雑感
「生き物」は「生きる」ためには「食べる」ことは欠かすことのできない要素だ。生き物が出てくる以上、それは必須となる。
特に本作では「食べる」ことを起因として大きな転換点が発生するため、その点に注目して物語を紐解いてみたい。
一幕 最初の食べるは蜘蛛影
意外なことに「食べる」にまつわる最初のエピソードは蜘蛛影だ。冒頭のパフォーマンスが終わり、オオカミがグループ名を名乗り、盛り上がる場面、蜘蛛影が感動で泣く、そのあとで烏人のせりふに「この人裏でめちゃくちゃ食料食べてましたけどね!」と暴露される。(公演後半に行くにつれて蜘蛛影のはしゃぎっぷりが大きくなり、わたしが観劇した中では少なくとも前楽、千穐楽でのこの台詞は消えていた)
「食料」という言葉がやや違和感のあるもので、「食事をしていた」「ご飯を食べていた」くらいが適当な印象だが、ここで「食料」を使うことで「人間」との違いが感じられる。
しかし、ここで疑問なのは「食料」を食べていたと暴露した烏人が、後半で蜘蛛影に「生野菜を持ってきているんですか?!」と驚くところだ。烏人はいったい、蜘蛛影が何を食べるところを見ていたのだろう?
吸血鬼の「食事」
次に舞台上で「食事」の話題になるのは「吸血鬼」だ。「いつも醜い色と味」の食事が、棺を模したテーブルの上に並べられる。それを貪るように食べる吸血鬼の家族。
「血むらいす」「血らあげ」
「血ゃぶちゃぶ」「血ーめん」「血ーるキャベツ」「血むれつ」「血ネストローネ」「血びチリ」「血ろっけ」「血まき」「血好み焼き」「血ポリタン」「血玉焼き」「血???」(これが何かよくわからない)」「血豆腐」「血ーズケーキ」「血ートボール」「血ラタン」「血ゅうまい」「かぼちゃの血タージュ」「魚の血ルパッチョ」「魚の血ニエル」
と、メニューを羅列すると非常に種類が豊富だ。しかしこの食事を吸血鬼くん自身は「汚いもの」と感じており、なぜこれを食べなければならないのか?この血は購入しているのか?と疑問を抱く。
それに対する父親らしき吸血鬼(「おとうちゃん」と呼ばれているところを見ると父親なのだろう)が最初は「お兄ちゃんはどうしちゃったのか、思春期かな?」などと誤魔化そうとするが、ちゃんと話をしよう、と息子が言うと、バンッと大きな音を立ててテーブルを叩き、出てゆけ、という。さらには「お父さんだって食べたくて食べているわけじゃない!」と叫ぶのだ。
ここで謎なのが吸血鬼にとっての食事とは「血液」が必須なのか?という問題だ。血を吸う、のが、好きなわけではない?吸血鬼として生まれてしまったがための、罪過のように感じているということか。
このあと、吸血鬼くんは、自分の趣味(?)である縫い物仕事に精を出しドレスを縫い上げるが、そのドレスを通りがかりの娘に着せると、その手を取り、彼女の血を吸ってしまう。彼女はそのまま倒れ(るので、これは「死」んでいるのだろう。後ほど吸血鬼くん家族と一緒にダンスをしているということは同じ吸血鬼になったということ?)、自分のしてしまったことに驚きショックを受けて、「血塗れfamiliar」から、ひとり抜け出す。たったひとりで家族を捨て(とりあえず家からは離れる)吸血鬼くんはひとりで歩き出すわけだが、途中で自分の血液を吸う。
吸血鬼にとって、「自分の血で満足できる」ものなのか?だとしたら他の人間を必要としないのでは?と言う気もする。否定される自分の生き方、会話を拒絶される家族からの逃避、が、吸血鬼くんの第一歩だ。
血液=汚いもの、それを食べることに疑問を持つこと。これが吸血鬼の「食べる」だろう。
狼男の「食事」
次の「食事」にまつわる場面は狼男だ。
「月に一度」
「みんなで人間の肉を食べる」
「特別な日」
「嫌なこととかつらいこととか、みんな忘れられる」
というのが「人肉」を食べることで得られる快感らしい。ものすごく豪華な食べ物で、というもの。ところがそれを食べるとみんな野生の姿になって「殺されてしまうかも」と思うくらいに、凶暴になる……。
そのあと、狼男くんは仲間の意地悪で人間の足の指を食べさせられる。他の仲間は「食べてない」けど、お前にやる、と言われ、「足の指」を食べる。これは嫌がらせで、しかし食べた狼男くんは「甘めっていうか」「子どもでも食べれるじゃん」「懐かしいような風味」などを感じながら、でもこんなに美味しいものをどうして食べさせてくれなかったのか、と、憤り、興奮する。興奮し、野生の狼に変身し、仲間を皆殺しにしてしまう。
仲間を食い殺し、それを「覚えてない」狼男くん。でも「気持ちよかった」感覚がある。村はみんな静かになってしまっているのに。他にもし狼男の村があったのだとしたら、仲間を食い殺すモノを迎え入れるだろうか?
狼男くんにとっては、人間は「興奮作用もあり、美味しい食べ物で」、しかしおそらくは理性を失わせるものだから、それ以降は「肉系のものは食べたいない」という。基本は野菜を食べる、という。
吸血鬼と狼男は「人」を食料とする?
キツネはどう感じた?
ふたりの共通点は、人間を「食料」とする、ということだ。吸血鬼は「血」だけではあるが、通りすがりの女の子が死んだところを見ると、やはり血を吸うとその人間は死んでしまうようだ。のちに、「からすを調理する、血抜きは任せて!」という場面もあるので人の血でなくてもよいのかもしれない。が、少なくとも「人間」を食べるものとみなす種類の生き物であることは確かだ。だから、ニ幕で人間を食べることは「よくあることだから」と説明してしまう。うちの父親も人間を殺していたし、と。
狼男くんの知りたいことは、「自分がヒトの形に近いものなのか」「野生の狼に近いものなのか」だ。「人間を食べる」ことを選べば「野生の狼」を取ることになる。吸血鬼くんと会って、次にキツネくんと会ったときには、人間だけでなく、「肉を食べないようにしている」というのだから、「人間」の方を選んできたのだ。
そう話をするふたりと出会ったキツネはどう感じたのだろう?「キツネ」という生態からすれば狼はどう考えても「捕食者」であり、危険を感じたら逃げ出したりしてもおかしくはない。ただ、お互いに(吸血鬼を含め)人間のような姿になっているから気にしていないのか。特別、キツネが狼男を怖がっている様子は見受けられなかった。
キツネの食料は?
キツネは直接食べるものに関して出てこない。最初に化け狐だと近くの住人に見破られ、家族が全員撃ち殺されたときに「買い物するため外出」「食料を集め」という言葉が出てくる。生きるためには「食べ物がいる」ことがここからも明らかだ。「人間」ではなくても「生き物」だから、「食べる」。考えてみれば当たり前のことだが、「生きるために」他者の生命を奪う、やられたのだから自分もやり返す、という発想は人間と同じだ。「食べるため」でなく人を殺したことを考えると、これは「狼男」に近い。
烏人の「食事」
烏人、は、もともと普通の「鳥」でした、と語られる。小さい可愛い鳥だったけど、他の鳥たちはもっと可愛くて、みんなに怖がられ、「ごはんの時間もみんな飛び立って行く」、という仲間はずれ。ひねくれて、ゴミ捨て場で漁るようになったという歌。なにしろ「ゴミ捨て場のビュッフェ」がタイトルの曲だ。そっちの方が味がした、週二回のビュッフェ、「贅沢たんまり栄養たっぷり」。物はいいよう、そう考えなきゃ生きていくことが難しい。ゴミ捨て場の残飯を食べて育ったのがこの烏人だ。
そのうちに嘴の生えた人の姿に変わってしまう。人の姿にもならない、元の姿に戻ることもできない、怖がられてしまうからと、自ら嘴を切り落とす……。
食事のときに「みんな逃げていく」という仲間はずれ、疎外。残飯、ゴミ、が「食事」。烏の食事にまつわるエピソードはマイナスイメージが大きい。食べるものが「汚いもの」という意識の吸血鬼と似た部分がある。ただし、吸血鬼は家族団欒で皆が喜んで貪っている食事を自分だけが「汚いモノを食べる」と言葉にしてしまうことが違うところだ。また、烏人は「汚いはずのゴミ」をそれと理解しながら「栄養」「贅沢」と肯定し敢えて食事として選んでいる。
蜘蛛影の食事
これははっきりと「生きるために必要」ということが明言されている。なにしろ「生野菜」をかばん(麻袋?)に入れて持ち歩いているという。これはおそらく冒頭の「出番の前に裏でめちゃくちゃ食料食べてました」の烏人の台詞によって補完されている。
しかし、蜘蛛って食べるの虫じゃないんだ?というのがまず疑問。集合体であるが、人と同じように口からキャベツなどを摂取(咀嚼音もあるところからこれがわかる)するらしい。集合体であるために、食料がこまめに必要になる?ということなのか(持ち歩いているので)。
また、蜘蛛の持ち歩いている野菜もよくわからない。「とうもろこし」「ブロッコリー」「キャベツ」のほか、「マンゴー」(キツネが投げる時に叫んだのでわかった)、それに寒さから身を守るための携帯用使い捨てカイロ(これは食べ物ではない)。タンパク質が多い野菜、ということだが(蜘蛛の糸はタンパク質でできているから)、やはり蜘蛛の一般的な食べ物は「虫」などでは、と思うが、それでは話が繋がらないのだろう。なにしろ、これらの食品は「興奮し、混乱する狼の気持ちを落ち着けるために与える」ものだからだ。
それでも、やはりなぜ蜘蛛の「食料」を野菜にしたのか、疑問は残る。蜘蛛自体にそんな逸話(説話?)でもあったか?
鬼の子にとって「食事」は?
鬼の子の食事にまつわる話は記憶している限り、出てこない。「ごはんちゃんと食べました?お腹すいちゃいますよ、寝てる時」と狼男が鬼の子に聞くところくらいだ。そう、最初に出てくる「食べ物」の話は、狼男からの食事を摂ったか?という質問なのだ。
人間の子どもなのだから、明らかに「食事」はするはずだが、彼に関しては全く出てこない。成長しているのだから(烏人に育ててもらった)、同じモノを食べていたのだとすればゴミ捨て場の残飯を食べて育ったのか?と考えられるが、それについても言及されていない。そう考えると「食料」を探すのは大変な仕事であろうし、毎日毎日、お腹を空かせていても不思議はない。3食、満足に食べられていたのかもわからない。吸血鬼が「汚いモノ」とはいえ、あれだけのメニューを挙げている中、鬼の子は食べるものに困っていたのかもしれないのだ。
穿った見方をすれば、狼男から「食事」の心配をされたことがまず鬼の子の心を動かした、とも言える。だから、「本当の自分がどっちなのかを知りたい」(野生の狼の姿の、理性のない姿が自分なのか、それとも人の言葉をあやつり、「ひとの言葉」を考え続けなくてはならない人間に近しい姿なのか、ということ)という狼男に、人間の「死体」の肉を与えることを思いついたのかもしれない。「食事」の心配をしてくれた狼さんに、美味しいと言っていた「人間の肉」をあげよう、と考えたとしたら、それはまさに「鬼の子」なのだ。もはや人の思考ではない。
ニ幕での「食料」の意味
これらの蜘蛛の「鞄の中身」が明らかになるのはニ幕で、荒ぶる狼は「お腹が減っているのかもしれない、だからなにか食料を与えよう」と烏人が提案するからだ。最初は水を与えているが、飲もうとしない。言葉を忘れ、野生の動物のように荒ぶる狼は、キツネが気を遣ってペットボトルの水を皿に入れてくれるが、飲もうとはしない。
吸血鬼が話しかけると少し落ち着くものの、触るよ、と声をかけてその身体に触れようとすると吸血鬼の手に噛みついてしまう。出血した吸血鬼は「もったいないもったいない」と自らの血を吸う。
それを見たキツネは、「誰でもいいから食べようとしているんですよ!」と、飛躍した考えを述べ、吸血鬼に「あおらないで」とたしなめられる。しかしキツネは自分がその標的にされるかもしれない、と危機感を持つ。家族を殺されたトラウマか、キツネはペシミストなのだ。
ここで初めて、キツネによって一幕の終わりで狼が何をしたのか、がはっきり言葉にされる。「食べたんですよ、人間を、みんなの前で!」と。
この衝撃的な発言の後に、「よくあるから」と吸血鬼にまたたしなめられる。キツネは人間と同じような感覚を持っているのか「ないでしょ、そんなこと!」と反論する。吸血鬼にしてみれば、父親も人を殺して(おそらくは血を吸って)いたし、思い返せば吸血鬼自身もあの通りすがりの女の子を殺してしまっているのだ。自分自身の「普通」と、他者の「ふつう」。特に吸血鬼の場合、家族の他に関わりのある「他者」が不在であったのだから、「人間の当たり前」が、理解できないのも当然だ。
キツネはその吸血鬼の話を聞きながら自分が殺される、と、叫ぶ。
そのうちに、烏人が「野生の動物はお腹が空いていると感情的になるから」と、なにか食べ物を持っていないかと仲間に聞く。食料など持ち歩いているはずがないと応じる。そのとき、また吸血鬼が「烏は?!もう一度読んでくれたら俺が調理を」と申し出る。これには烏人も唖然とする。自分の仲間を呼んで、それを食わせようとする意識に、怒りを露わにする。
吸血鬼にはそれがわからない。血抜きは任せて、と念押しをするあたりも、吸血鬼の常識はずれらしい部分が目立ってくる。
食べる、ということが、「生き物」それぞれにとって大きく違うこと。また、「食べるもの」と「食べられるもの」が、この「仲間」の中にも存在することが次第に明らかになってくるのだ。キツネや烏は、狼や吸血鬼にとって「被捕食者」となることを意識せざるを得ない。そうなれば自己を守るための意識が働くのも無理はない。
蜘蛛影と鬼の子はこの「食べる」論争に参加しない。蜘蛛にとっては自分達を「食べる」のはむしろ烏であり(一幕で仲間のお父さんが一匹、烏に食われている)、それでも烏を恐れている様子はない。「蜘蛛影」という大きな存在からしてみれば、大勢のうちの一匹、それは人間の身体を構成する無数の細胞のようなものと思えば、たしかにその程度ならば怖くはない。
ただ、蜘蛛は力が出ないことを気にしている。そのため、怒りに身を任せひどく乱暴な言葉で他のものとやり取りをしているときにも、所かまわず手に持ったキャベツを齧る。栄養補給ということだろう。咀嚼音がリンゴを噛む音のようだ。「捕食者」「被捕食者」の関係性からいえば、蜘蛛影だけは「傍観者」の立場になるのではないだろうか。
「鬼の子」は「鬼」になる
「食べる」「食べられる」の関係で見ると
「食べる」=吸血鬼、狼男
「食べられる」=キツネ、烏
という関係性が見えてくる。キツネはどこまでも被害者的立場、家族を殺されたから人間に恨みを持ち、実際に人間を殺したことがある(と、蜘蛛影にも指摘されている)にも関わらず、キツネは常に殺される、追われる、人間には敵わない、という意識を貫いている。人間をどこまでも恐れている。自分の正体が明らかになることを誰よりも怖がっている。
対照的に、烏はその中では人間から「評価されたい」「認められたい」「認識してほしい」と思っている。だから「チャンネルを持っている」し、人間が見る映像を投稿するし、「人前に出てみませんか」と持ち掛ける。賞賛を浴びること、を、心の底から望んでいる。だからこそ、鬼の子が仕掛けた「人前で、人の肉を食う狼の姿を見せる」ことに同意するのだ。「そんなことを本当に受け入れてくれるのか」というのが、あの人前で、なんなら初めて人間達の前でパフォーマンスをする自分達の晴れ舞台で、人間の肉を食う狼の姿を晒す、という常識では信じられないことをしでかした、烏人の動機だ。
自らを二度捨てた母親を殺し、それを人前で狼に「食べさせる」という所業。不幸な生い立ちであったことを考慮したとしてもそれは鬼の所業といえるのではないだろうか。
また、烏人も、結果的にその場面に仲間のカラス達を呼び集め、おそらくは「鬼の子」の母親の死体を食わせている。「ゴミ捨て場のビュッフェ」を歌う烏人にとって、死体となった鬼の子の母親は、つまり、烏にとっての「食料」となるのだ。
被捕食者であるはずの烏も、こうして捕食者となり得る。人は人を殺し鬼ともなる。自身で食らったわけではないが、狼に母親を食べさせる「鬼の子」はまさしく鬼なのだ。
蜘蛛影の立ち位置
そんな中で蜘蛛影だけは、その誰にも共感しない。「人間のようになりたい」、人に憧れ、人間が大好きな蜘蛛影にとって、狼や吸血鬼はもちろん、人を食らう人間も、人を殺したことのあるキツネも、カラスも、すべて理解できない存在なのだ。それでも最後は、それぞれの悲しみを知り、孤独を知り、しかし一緒にいればまた誰かを傷つけてしまう、と、別離を選ぶ。
最後までキャベツを齧り続けることが印象的だ。最後まで「どんなときでも、生きることは食べること」を実践し続ける「生き物」たちなのだ。
終わりに
「食べること」と「生きること」をどこまで意識的に脚本演出、また俳優たちが考え、表現したのかはわからない。しかし各所に散りばめられた「食べる」ことが、私には引っかかった。最初から提示される「食料」、羅列される吸血鬼の「食事」、大きな転換点となる「人の肉を食う狼」を目撃する人間たち、そして、最後までキャベツを、食べ続ける蜘蛛影。
どんな極限状況でも、生き物は「生きる」ために「食べる」。何を食べるか、どこで食べるか、どんなふうに食べるか、最終的にはその齟齬が生き物たちを分けている、と言えるのかもしれない。弱肉強食とよく言われるが、その「弱さ」「強さ」は、状況によっても大きく変化する。
食べることは生きること。生きるためには食べなければならない。どんなものであっても、生きるために食べる。他の命を自分のために奪う。宿命と言えるのかもしれない。