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『横光利一研究』第22集オンライン合評会でレポーターを担当しました!

昨日の午後1時から4時30分までの3時間半にわたって開催された横光利一文学会の合評会にレポーターとして参加しました。

担当したのは、中村梨恵子氏の「花園の思想」論です。

先行文献の読み直しはNotebookLMに手伝ってもらい、レジュメ(発表メモ)の作成においても、Google Gemini や ChatGPT, Claude などを活用しつつ準備を進めました。

出来上がった発表メモは、他のレポーターと同じようにWordのファイル(A4)にまとめてシェアしつつ、Google ドキュメントのリンクを Zoomのチャット欄にも送信しました。

関東大震災から101年目にあたる日の前日、「震災後文学」について意見を述べる時間もあり、久しぶりに文学研究的な言語運用の世界に身を浸しました。

以下に発表用に作成したレジュメを転載しておきます。

ちなみに、この記事のイメージ画像は、以下のメモを基本的なデータとして与え、ChatGPTにZoomのヴァーチャル背景をとして作成させたものです。

『横光利一研究』第22集 合評会メモ

中村梨恵子氏「横光利一「花園の思想」―〈場〉の生成と死の表象―」

1. 〈場〉の再評価と社会的背景との関連付け
同時代の社会的・文化的背景や言説と関連づけて、〈場〉の再評価が行われている。従来の研究が象徴的・比喩的な視点に偏っていた中で、〈場〉を具体的な社会的現実との関連で捉えることで、この小説が現実社会とどのように結びついているかを明らかにしようとしている。(※「湘南」問題、「読者」問題/「転地療養の場所として地名をあげれば、説明しなくとも読者は納得する」大島英夫)
2. 〈場〉の動的生成とその解釈
「彼」の移動が〈場〉の生成にどのように寄与し、〈場〉の意味を変容させているかを考察している。小説の展開において、〈場〉が果たす役割を分析し、人物の行動が小説の象徴的構造を形成するプロセスを捉えようとしている。(※「街」という〈場〉/東京の「貧民窟」を思わせる「街」?)
3. 死の表象に対するアプローチ
「彼」の移動を通じて、死の訪れとその衝撃を表現する手法に注目し、死の表象についてのこれまでの解釈に新たな視点を提供しようとしている。(※結末「移動」と考えること⇄〈場〉の分析)

『死』は本来、言葉で表現することなど不可能なものである。だからこそ、『死』そのものを描写するのではなく、『死』を目撃した『彼』の『移動』を示すことによって、『死』の訪れと衝撃を描くという形をとったのだ。

p91下段「五、おわりに」

4. 「花園」の解釈について
「花園」の解釈については検討の余地がある。「花園」を肺療院そのもの、肺療院の庭にある花壇、「看護婦達」等として捉えているが、「花園」の含意については再検討の余地が残されている。

 この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔(プロフィール)や花々の静まった静物の線の中から、かすかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花という花を部屋の中へ集め出した。
 薔薇は朝毎に水に濡れたまま揺れて来た。紫陽花と矢車草と野茨と芍薬と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲いていた。それは華やかな花屋のような部屋であった。

「花園の思想」第三節

花壇に咲く花が「生」を象徴する一方で、病室に飾られた「切り花」は「死」を象徴し、「花園」が生と死の境界を示す象徴的な空間であると解釈することもできる。この視点を加えることで、作品の結びにおける「花園」の象徴性をより多面的に理解できるのではないか。
5. 「読者」概念について
論文中の「当時の読者」「読者」という概念についても検討の余地がある。論文中で想定されている「読者」は、文学に関心を持ち、文学的な言説空間に身を置いている読者層、さらに言えば東京周辺の土地勘がある者ではないかと考えられる。そうでなければ、「湘南」や「サナトリウム」について、論者が想定するような想像力を働かせることは困難である。「読者」概念の有効性は、物語内容の質にも左右されることに留意すべきだ。


質問:「花園」という〈場〉/「移動」について現時点でどうお考えか?



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