『縫修師ライム・ライト』短編小説 「神のケーキを召し上がれ」
1
今日も一日、突発的なアクシデントには一切見舞われずに済んだ。そう安堵した翌日、何かが弾けるように暴発するという事はよくあるように思う。
特に、一周勝利(いっしゅうまさとし)の人生に於いては。
いつも通り、勝利がバイト先に向かおうとした一月のある朝。総武線各駅停車の下り線が、突然運転見合わせとなった。
原因は、錦糸町駅付近で架線に飛来物が付着した為らしい。勝利が利用する新小岩駅でも、西船橋方面に向かう利用者の多くが下りの快速ホームで電車を待つ。
今日は平日。しかも総武線は、快速電車と各駅停車で下り線を利用する乗客全てを輸送している。
快速電車は各駅停車の利用客まで受け入れ、全ての車両が膨張するのではないかという激しい混み方になった。奇しくも、そのような日に限って特に利用客が多いように感じるのは気の所為だろうか。
短いため息をつく客、スマホの画面を見る事ができずむっとしながら諦める客など、苛立ちと焦りを充満させた車内は、辛抱の限界を試すリアル・ゲームの様相を呈している。
ようやく市川駅で解放された勝利は、疲労と関節の悲鳴に朝から顔を歪ませた。五分の乗車で一日分の体力の約半分を持ってゆかれ、空腹も手伝い、暗い気分にじわじわと侵食されてしまう。
確信と共に大きく項垂れた。各駅停車の運転見合わせは、絶対自分に原因がある、と。
巻き込まれた乗客に向け、脳内で百回は「ごめんなさい」を唱えつつ歩く。まんぼう亭の勝手口を開ける時、「おはようございます」の声には全く力が入らなかった。
店内を見回した直後、曲がっていた背が緊張感の為にすっと伸びる。
食事中の客がいるではないか。しかも、三人も、だ。
出勤した勝利を見つめているのは、既知の神々ばかりではない。
若い男女と中年女性が、いずれも窓寄りのテーブル席でモーニングを食べていた。ドアの開閉音を異音として捉え、料理から目を離し何事かとこちらを見ている。
「おはようございます!!」咄嗟にやり直す挨拶は、不自然さ満載の大声になった。
面食らった客の全員が一度は目を見開くものの、その後ゆったりと食事を再開する。
「おはよう、勝利君」店長の湖守が、目線で勝利に合格サインを出した。「君から電話をもらった後、ネットで遅延情報を拾ったよ。昨夜低気圧が通過したんだから、ただの風のいたずら。元気出して」
「はい」と答え、深呼吸を三度繰り返す。
勝利がまんぼう亭でアルバイトを始めてから、一月少々が経過していた。
その間、電車の遅延による遅刻が、今日を含めて三度。アパートの玄関ドアの鍵が回らなくなり外に出られなくなった事が一度、という無残な有様だ。
合計すると頻度としては高い方に入る為、採用してくれた店長には本当に申し訳ないと思っている。
都内で一人暮らしをする不運体質持ちの二四才に、湖守は仕事を与えてくれた。多少童顔の平均的日本人が、貯金を取り崩す必要がなくなったのと、まかないで二食も腹を満たせるようになったのは、救いの神のおかげだ。
文字通りの「救いの神」とはこの事で、単なる比喩ではない。
本当に人間ではないのだ。この店を拠点にしている者達は。
男性女性の区別なく、中年少年の区別もなく、際立った顔立ちはモデルや俳優の域を超え、月光で削り上げた宝石の彫刻を思わせる。
眼福という言葉があるが、美しい顔も神のものとなると、心が震えすぎ、見る者達は感動によって打ちのめされてしまう。勤務時間中に同じ空間を共有し続けている勝利も、未だ慣れてはいなかった。
黒髪と顎髭を持つ店長も、おしゃれ好きな中年男性である事を楽しんでいるが、人間との共存を選んだ神々を束ねるリーダー的存在だ。
「早く上で着替えておいで。モーニング、すぐに食べたいでしょ?」
「はいっ!! ありがとうございます!」
一旦店の外に出、三階建てのビルを精一杯の速度で最上階まで駆け上がる。三階の壁面にたった一つ埋め込まれているドアの前に立つと、中から解鍵の音がした。
躊躇なくドアを開けるが、室内には誰もいない。
それでも勝利は、「おはよう、乃宇里亜(のうりあ)」と頭上の空気に挨拶し、一番奥にある部屋まで進んだ。脱いだコートを掛け、代わりに洗濯済みのエプロンを身につけて携帯端末をエプロンのポケットに移す。
その携帯端末は、一見すると市販のスマホに酷似していた。しかし、中身は全くの別物で、神々が使用する事を前提としたスマホ以上の多機能機器だ。
店に戻る前、きょろきょろと上下左右を見回す。一番見られたくない相手がいない事を確認してから、勝利はおもむろに三階の清浄な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「ライムさん……」
彼は今、店のカウンターで過ごしている。
肺の隅々にまで行き渡らせたかった。緑の縫修師が階下に下りるまで彼を包んでいた部屋の空気を。
「来れたんだ、俺は。今日もここに……」
アクシデントに見舞われたからこそ、小さな成果が嬉しい。
目を閉じて思い描く。新緑の虹彩を持つ年上風の男神を。
例えるなら、春の陽光に透ける新緑、或いは春の陽光そのものか。落葉樹の寒々しい姿が目につく日差しの弱い冬には、思慕の念が一層増す。
陽光と春に死が存在しないのと同じで、不死の彼には、命ある者が焦がれて止まぬ聖なる輝きと尊さが満ちている。
「よしっ!」
気持ちを切り替え、猛スピードで階段を走って下りる。
再び勝手口から入ると、一人分のモーニングが空席のカウンターに出されるところだった。
焼きたての厚切りトーストと、ジャムにバター、ゆで卵、コーヒーは、いつもの通り。更に今日は、サイドの日替わりとして具沢山のコールスローが付いている。
食事する勝利の左隣にはスーツに眼鏡というライムがスツールに腰掛け、彼の左隣、カウンターの一番左端には緑の短髪をした男神ダブルワークが座っていた。
赤の縫修師ミカギとそのパートナー・チリもいるが、黒の縫修師ツェルバとそのパートナー・スールゥーは今日も出かけているらしい。
少年神二人が、何処かでやんちゃを働いていなければいいが。唯一年下の容姿を持つ彼等に、勝利はつい気を揉んでしまう。
一人で過ごしていた女性客が、落ち着きのない様子でレジに進む。勝利が立ち上がろうとするも、慣れた様子で伝票を受け取ったのは、若い男神チリだった。
赤い長髪の青年がおつりを渡すと、女性客は顔を伏せ「美味しかったです」とそれはそれは小さな声で満足度を口にする。
「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
チリが微笑んだ直後、女性客が突然頭を下げた。客でありながら、だ。
続いて二人連れの男女も、「じゃ、行こうか」と同時に立ち上がり会計を済ませる。
二人共、チリの顔は正視しない。
午前七時半を過ぎたばかりという時刻に、店内は勝利と神々だけで占められた。
店内を流れる音楽がいつものボリュームのまま、より鮮明な音質で楽器を奏でる。
「勿体ないですよね」コールスローを掬いつつ、勝利は客達の反応を思い出した。「チリさんは、すっごく女性好みの顔とルックスをしていると思うんです。上手くマッチングしたら、まんぼう亭はもっと流行るのに」
「いいのぉ~? そういう欲をかいちゃうと、ライムにも女性ファンがつくのよ~」
語尾を伸ばす話し方で、金髪赤眼のミカギが勝利をからかった。アルバイトが遅めの朝食にありついている間、使用済みの食器を女神が手際よく引き上げる。
「えっ……」
剥き始めたばかりのゆで卵が、手から離れ食器を叩いた。自身の震える声が、取り乱すまいとする気持ちを更に動揺させる。
「っていうか、今、既にファンがついててもいいくらいの美形ばかりですよね。この店は」
「いいんだ、このくらいで。まんぼう亭の客の入りは」ダブルワークが何一つ店の手伝いをせず、パインあめを口に放り込む。「熱心な客が増えたら、視線が増えて、俺達の活動に支障が出るだろ」
彼の言う「活動」とは、縫修師とパートナーが神の御技を振るう対闇・対人間の本業の事だ。
人間の知らないところで、窓の明かりや家族の団欒を守っている神々が存在していた。神でありながら敬われる事を望まず、見返り一つない彼等の活動を密かに讃えているのは、勝利の他、極僅かな者達に留まる。
「俺、食べるの好きです。でも、ここの料理にハマって、もっと好きになりました。隠す事は必要かもしれません。でも、別に隠したくて集客力を控えめにしている訳ではないんでしょ?」
緑の縫修師が、納得げに微笑む。
「君は、まんぼう亭の現状に不満があるのだな?」
「はい」ゆで卵の表面に軽く舌を走らせてから、テーブルの塩に手を伸ばす。「モーニングやランチに、夜のセット料理、単品料理。ここは何でも美味しいです。もっと沢山の人を笑顔にできると思ってるんですが、迷惑ですか?」
「ありがとう、勝利君。そんな君には、今朝も美味しいおまけを付けよう」湖守が濃茶の冷蔵庫を開け、「……あれ?」と口を丸くする。
「どうしました?」軽く首を捻るライムに、湖守が庫内を指さし表情を曇らせた。「冷蔵庫の中が真っ暗なんだけど。冷気も出てないような……」
「それ、一週間前に買い換えたばっかりですよ!」勝利が食事を中断すれば、ダブルワークが「さっきまで使えてた、よな」と開店前の様子を回想する。
「あ……」
勝利の口の中から、味覚の感知能力が失われた。塩をつけたゆで卵も、こくのあるバターと香ばしいトーストの味も、全く感じられなくなってしまう。
アクシデントなら、今朝起きたばかりだ。一日に複数回は滅多にあるものではない。
スツールに座ったまま、勝利は膝の上で拳を握る。
「それ、また俺の不運ばらまきが原因かもしれません」
2
「ごめんなさいっ!!」我慢しきれず、勝利は立ち上がって腰から上半身を九〇度に折った。「きっと、俺の所為です! 俺の影響で、店の冷蔵庫までこ……」
「壊してねぇ!!」ダブルワークが謝罪の言葉を遮ると、自席から離れライムの背後に回る。「もう謝るな、って言ったよな。俺は。ペナルティだ」
「えっ……」
元々ライムより背の高い短髪の男神が、背後から紳士の顎の下に右手を滑り込ませた。自然と、ライムの顎がゆっくりと上がる。
「何がしたいんだ?」やや不機嫌そうに問う眼鏡の紳士に、緑髪のパートナーが甘く囁いた。
「勝利が、俺達の濃厚なシーンを見たいんだ、と」
「言ってませんよ!!」
食べかけの朝食を一瞬で忘却し、勝利は唇を下方に曲げて反論する。だが、本当は関係するやりとりに覚えがあった。
勝利は、不運体質の発現によって起きた現象を自身の罪として背負い込む傾向がある。謝り癖は、その結果として幼少の頃に染み着いたものだ。
先月、やめるように言われた。ダブルワークと、そしてライムに。
緑の縫修師が左手を垂直に伸ばし、額にキスしようとする相棒を力で拒絶する。
「私を使って勝利君で遊ぶな」無意識に放たれる春風の微笑みが、パートナーを木漏れ日の中に包み込む。「彼はきちんと飲み込んだぞ、癖になっていた『ごめんなさい』の連呼を」
「まぁな、そこは誉めてやってもいい」
短髪の男が、左手で紳士の手首を優しく掴んだ。横に外すとその手首を軽く啄み、無防備になった額には五秒以上のキスをする。
「あ~~~ッッ!!」絵になるからこそ、なおの事腹が立つ。勝利は、力任せにダブルワークを横から突き飛ばそうとした。「飲み込んだ、って誉めてくれたばっかりなのに!!」
「勢いってやつだ、これは。いいだろう~、羨ましいか?」
「はい……」
悔しさのあまり、自然と涙が浮かんでしまう。
それを見たダブルワークが、何故か瞬時に硬直した。
「からかい過ぎでしょ~。勝利クンがかわいそう~」
洗い物を片づけ、赤の縫修師がキッチンの外に出る。そして何を思ったか、勝利の頭を自身の胸の谷間へと押しつけた。
「ごめんなさいね~、勝利クン」
右耳から右頬にかけ、セーターの編み目を通し弾力のある女神の肉感が伝わってくる。
これを嫌だと言える訳がない。
「勝利君。ほら、ご飯。お昼になっちゃうよ」間近で展開するコントに笑いを堪えつつ、店長がキッチンから身を乗り出しコーヒーを淹れたてのものと交換する。「レジ袋が架線に巻き付くなんてよくある事だし、冷蔵庫だってたまたま初期不良の商品に遭遇する事はあるよ」
とはいっても、対応の必要が生じてしまったのは事実だ。
「中身、二階と三階の冷蔵庫に分けて移そうか」
我に帰った勝利は、ミカギから解放されるや慌てて両手首を左右に振る。
「湖守さん! 三階の冷蔵庫は、試作の冬ケーキとその材料でいっぱいです!」
「そうだった」思い出した様子の店長が、「う~ん。すぐに修理を頼むとしても、うちは飲食だからドアの開閉をしない訳にはいかないし」
勝利の内面を察したか、ダブルワークが凄みつつアルバイト店員の背にぴったりと張り着く。
「謝ったら……、わかってるな」
「勿論です。ペナルティなんて一度で十分ですよ」口を尖らせ、ふと短期滞在用のサービスを思い出す。「電化製品のレンタルとか、そんなのありませんでしたか?」
「レンタル? 冷蔵庫の?」
さっそく携帯端末で、湖守が冷蔵庫の購入先に電話する。状態確認の為夕方に伺う、という返事は誰にとっても予想の範囲内だった。
問題なのは、その間だ。
同じ携帯端末で、湖守は親しい神の一人、石塚に相談をする。
『うちの冷蔵庫を使ってください!!』と気前の良いよい返事をした石塚は、勝利の住んでいる地域でコンビニを経営している男神だ。大地と繋がり、闇の出現をいち早く察知し湖守に伝える「土地守」の役目を担っている。
『うちには、冷蔵庫が二台あるんです。元々、片方はほとんど空ですから、どうぞお使いになってください』
「いいの? 何かしたくて、二台も使ってるんでしょ?」
ハハ、と短い照れ笑いが会話を中断させた。
『氷を作っているだけです。それは何とかできますが、まんぼう亭は営業中ですし、さぞやお困りでしょう』
「ありがとう。じゃあ、君の言葉に甘えて借りる事にするよ」左手の親指と人差し指で丸を描き、店長は勝利やライム達に安心するよう伝える。「さっそく取りに行かせるから」
『お待ちしております』
「取りに行く」、その言葉が勝利の勘に引っかかった。軽トラックなど大きな荷を運ぶ事に向いた車両は、この店には無い。
車の手配も必要だろうに、と首を捻る勝利を横目に、「行ってきます」とダブルワークが勝手口の外へと消えた。
続くライムが、戸口で手招きをする。
「勝利君、君にも手伝ってほしい」
「手伝うって、何を……」
話の流れから、冷蔵庫の件しか思い当たらなかった。
まさか、神の姿を利用するのか。たかが冷蔵庫の為に。
「急げ。店の暖房で、二階の冷蔵庫に入りきらないものが痛む」
「はい!」
案の定、ビルの屋上を見下ろす形で、ヴァイエルに姿を変えたダブルワークが二人の搭乗者を待っていた。
人知を超えた神の手による造形の究極。その領域にあるものを仰ぐだけで、目的に絡みつく日常臭などどうでもよくなってしまう。
湿度の低い冬の空に、緑の輝色に縁どられた白い人型の巨大な機体が浮いていた。水平に姿勢を制御し下向きになっている為、見上げるとヴァイエルと目が合う。
上からの圧迫感がない訳ではない。だが、その圧迫感は見える者だけが感じる事のできる特権だ。
そもそも普通の人間にとって、ヴァイエルは不可視の存在にあたる。人間に知られず戦う為の能力は、神機を人々の視界から完全に抹消していた。
せめて、見る事ができる者くらい讃美してもいいと思う。たとえそれが、口の悪いダブルワークの姿だとしても。
優美なラインと、細部まで造り込まれた隙のない硬質美。白いヴァイエルは、神がこの地にもたらした形ある奇跡だ。
白い装甲の表面にちらちらと輝く光沢は、随所で冬の星の瞬きを思わせる。本物の星々の光があしらわれた機体は、永遠に天上を舞う高潔さを讃え「群星機」と呼ぶに相応しい。
ライムの姿が一瞬でかき消えた。白いヴァイエルがタイミングを計り、自分の内部に転送した為だ。
勝利を収容する為には、いつも別な手段が用いられる。
大きな右の掌が、ビルの屋上へと下ろされた。
掬い上げられた勝利の体は、胸部との接触によって内部に送り込まれる。中では、縫修師専用のシートに収まっているライムが、運送助手を待っていた。
「ダブルワークの能力が、戦闘以外に使用されるのもいいものだな」笑顔は作らず、それでいてどこか楽しんでいる様子の縫修師が「出発だ、ダブルワーク」と指示を出す。
『おう。通りすぎないよう気をつけねぇとな』
勝利とライムのシートを包むように、球状のモニターが全包囲の外界を同時に表示している。
その下方だけが変化をつけ始めた。いつもよりずっと低速で、総武線沿線の俯瞰画像が後方へと流れてゆく。
折角思い出したので、勝利は尋ねてみる事にした。
「冷蔵庫を取りに行くだけなのに、使っちゃっていいんですか? 神様の力を」
「確かにまんぼう亭は、人間が食事をする為に湖守さんが経営している表の顔でもある。わざわざヴァイエルで空輸するのはやりすぎだ、と」
「はい」
『神様だろ? お客様だって。まだサービス業の自覚がねぇのか』
「あ、いえ、そういう巧い話で茶化されても……」
そもそも、勝利の不運体質が発現しなければ、冷蔵庫の為にダブルワークがヴァイエル化する必要はなかった。神にその力を行使させ、湖守、そして今日この後に店を訪れてくれる客達に迷惑をかけるのは、誰あろう、この自分ではないか。
サービス業の自覚以前に、そのサービスを低下させてしまうアルバイト従業員が存在する。神の手法に口出しする資格がある筈もない。
眼鏡の奥で、ライムが瞬きをした。
「君には悪いが、冷蔵庫についても君の不運体質に原因がある、と私は考えている」
はっきりと言われた。事実と思しきものを。
「しかしその確率操作は、神域に属する力の暴走にすぎない。勝利君。君に非がある訳ではないんだ。ならば、私達神域に属する者がフォローするのは当然と言える」
「ライムさん……」
『お前は、何度も謝らなくなった。俺達の言う通りにな』ダブルワークも、機内での会話に加わる。『今のお前が、確率操作の全てを御そうとするな。そんな欲をかいたら、度が過ぎて、変なところに行っちまうぞ』
「はい。あ、ありがとうございます」
図星を刺されたのに、何処か嬉しくもある。
泣きたくなってもいいのだろうか。冷蔵庫を借りに行く神機の中で。
3
市川駅近くのまんぼう亭から件のコンビニまで、総武線快速で言うと西に一駅分の移動という事になる。ダブルワークは西南西の方角に直進し、見慣れた四角い屋根の上に停止した。
系列店のシャツを着た石塚が、建物の外階段の一番上に立ち自身の横を下向きに指している。外壁に囲まれたL字型の短辺に降りてほしい、という提案なのだろう。
人間にとっては不可視のヴァイエルも、神には居場所が丸見えだ。
確かに、搭乗者が二人も突然現れる事になるなら、元々人目の多い駐車場より、二階の自宅玄関前の方が良い。階段の外壁が囲みを作っている為、三面が完全に外からの視線を遮断しているのだから。
残る一面では、自宅階の玄関が口を開けている。
「中は空にし、コンセントも抜いてあります」
降り立った勝利とライムに、石塚が屋内へと入るよう促した。
「すみません」気遣いに対し、勝利は深々と頭を下げる。
「勝利様の所為ではありませんよ」土地守は、かぶりを振った。「それに買ったばかりの電化製品なら、修理にしろ交換にしろタダです。もしかしたら、勝手に直るなんて事もあるかもしれないじゃないですか」
「それ、あったらいいですね」社交辞令半分、本気半分で小さく頷く。「ありがとうございます。お気持ちは貰って、冷蔵庫は借りて行きます」
ダブルワークのように巧みには返せないが、深刻にならぬよう意識し、勝利は話し方を練り上げる。
「あと、わざわざ俺に『様』付けとかは……」
所詮、ただの手伝い、確率操作に翻弄される見習いのような神の仲間だ。そんな人間に、神が敢えて「様」付けとは。相応しくない者として、こちらが恐縮してしまう。
「我が家の冷蔵庫を、是非まんぼう亭でお役立てください。お客様の為に」
「石塚店長……」
「まんぼう亭のお料理には、今日、あの冷蔵庫が必要なのです」
敢えて強調する「お客様」が、石塚にも湖守と同じ思想が流れている事を語っていた。
これから湖守が作る一食分のランチと、石塚が販売する一食分の弁当。二人の意識は、その安全と客の笑顔に向けられている。
そう。それを大切にしたいが為、彼等は神でありながら食事の提供を続けているように思えてならない。
勝利は、「はい」と力強く首肯した。
石塚家の台所に据えられている冷蔵庫には、既に通り道が確保されいる。
なるほど確かに、色違いの同型が二台並べられており、クリーム色をした方はコードを丸く束ね側面に貼りつけてある。
ライムと二人で玄関まで運び出し、土地守の見送りを受けダブルワークは再び低速で飛行する。
移動中、巨大なヴァイエルは、右手に乗せた淡色の家電を丁寧に運ぼうと上部を左手の指先で器用に押さえていた。
否定などはしない、もう二度と。
まんぼう亭の入っているビル上空に戻ると、ダブルワークは冷蔵庫を建物の裏、駅前通りからは死角になっている場所に下ろした。そこから、勝利とダブルワークで店まで運び入れる。
仕事を一つ取り上げられた事を悟り、ライムが二人よりも先に店に入ると、チリと二人で故障した冷蔵庫を店の一番奥にまで移動させた。
その間、奇跡の技は一切発揮されないし、電化製品の入れ替えにかける手間は人間も神も全く変わらなかった。
ランチタイムだけは、まんぼう亭にも月曜から土曜日まで毎週多くの客達が足を運んでくれる。今日昼の繁忙時間帯には、いつも通りの安全な料理を提供できそうだ。
「そういえば、どうしてランチタイムだけ常連さんがついて、よくしゃべってゆくんでしょう?」
「決まってるだろ」キッチンの外に出した冷蔵庫に、ダブルワークが保証書を放り込む。「まんぼう亭のランチが、この辺りじゃ一番安くて量も多いからな」
「……安いって偉大ですね」
「うちの場合、モーニングとティータイム、夜のセットは近隣の店と値段を揃えているから、競争率が上がっちゃうんだよね」困っている様子は一切なく、むしろ満足そうに湖守がメニューの置き場所を指した。「他のお店とも上手くやってゆきたいじゃない? 同じ市川で、同じように料理で人を喜ばせているんだから」
「湖守さん」
二階に食材を取りに上がろうとする湖守を、つい呼び止めてしまったた。
完敗、というのとは違う。わかっていたつもりの事をあまりにも徹底していた為、脱帽したくなる。
「俺、この店で働けて嬉しいです」
それでも、まんぼう亭にはもっと沢山の客が入ってほしい。値段と量で説明がつくようにダブルワークは話していたが、勝利にはそれだけが理由とは思えなかった。
ランチ目当ての客は、地元の会社で働いている男性客が中心だ。神々の輝く容姿に彼等なりの何かを感じたとしても、思考の何割かは食事中でも仕事に占められている。
同じ常連が仕事帰りにはあまり寄ってゆかないのが、その証拠だ。
まんぼう亭は、癒しを求める客を掴みきる事ができない。たとえどれだけの配慮を重ねても、ここは光域に属する神々の空間であるが為に。
清浄すぎて人が引く、とは。何とか接点を増やせないものか。
勝利は、ポンと手を叩く。
「あの。こんなのは、どうでしょう?」膨らんだアイディアが、右手に上の階を示させる。「昨日作った試作のケーキに、マンボウの型抜きを飾りませんか? それを『今月のケーキ』として出すんです!」
「……面白そうだね」勝手口のドアを再び開けかけたものの、湖守が踵を返し数歩戻る。「今月のケーキ、ね。一月のマンボウって事?」
「はい。いっそ、持ち帰り用のクッキーもモンボウ型にするとか、どうでしょう」
「あァ? 昨日作ってたケーキって言うと」緑髪の神に、ミカギが空中に円を描いてみせた。「ココア・スポンジのオレンジババロア・サンドよ~。円筒状で、上にはチョコの層と生クリームの薄い層があるの~。断面、きれいよ~」
「いいねぇ。ホワイトチョコとか、上に映えるんじゃない」満面の笑みを浮かべながら、湖守がチョコの在庫を確かめる。「そのアイディア、ランチの支度をしながら少し練ってみるよ」
「ありがとうございます!!」
まんぼう亭にマンボウ。
安直の極みかもしれないが、やってる事。それをいっそ徹底してしまう方が、面白いインパクトを生むような気がする。
同じ日のランチタイムは今月最高の賑わいとなり、湖守と勝利、ミカギ、チリの四人は目が回るような忙しさをこなす事になった。
「ミカギちゃん、コーヒーお代わり」ランチの焼豚入り炒飯を平らげた男性客が、陽気な声で食後の一杯を更に追加する。
「あ、俺も」
「俺も」
客達は、全員が笑顔だ。そこには、量だけでは得る事のできない一つ上の満足感が溢れ出ている。
食べればきっと、多くの客が一瞬で惚れ込む。湖守の料理の力は、そういうものだっだ。
昼休みが終わる直前まで客達は粘り、時計の長針に追い立てられるように帰ってゆく。「また来るよ」の挨拶が、形式上のものでない事が更に嬉しい。
店内には、文字通り山を成す使用済み食器が残った。それらを洗うのも、今日の勝利にはいつもより楽しかった。
夕方、約束通りに修理の業者が一人で現れる。
「これ、買ったばっかりなんだけど」と湖守が説明した後、業者は試しにとコンセントを差してみた。
「あ……」
庫内の照明は点灯し、駆動音が始まる中、冷風もきちんと上部から吹き下ろす。
勝利は、拍子抜けした。気まずい冷風がキッチンの床に降下し、今日二度目の疲労感を覚える。
誰一人、何もしないうちに、まんぼう亭の冷蔵庫は良品として復活した。奇しくも、石塚が話していた通りに。
貸し主の晩酌に間に合うよう、ライムと勝利、そしてダブルワークの三人で、クリーム色の冷蔵庫を返しに行く。
『ま。八方丸く収まって、良かった良かった』
鼻歌でも混じりそうなダブルワークの中で、勝利は自身の膝に乗せた紙袋を決して落とすまいと始終気を張ってしまう。
湖守が用意した紙袋には、大きめの保温容器が二つ入れてあった。
中身は、どちらもできたての料理がたっぷりと詰められている。今日のランチと同じ焼豚入り炒飯と付け合わせのスープだ。
勝利の様子を、横から気遣わしげに見守っている視線がある。くすぐったい気配りに横を向くと、ライムが微笑んでいた。
「君から、石塚店長に渡すといい」
「はい」照れるように姿勢を直した途端、紙袋が傾きガサリと音を立てる。「あっ!! 大事に、大事に持って行かなくちゃ」
4
その日のうちに勝利のアイディアは採用され、翌日には、まんぼう亭初のマンボウをあしらった一月限定のケーキが売り出された。
レジ横のクッキーと同様テイクアウトもOKで、ティータイム用にはコーヒーなど好みのソフトドリンクと組み合わせたメニューも用意されている。
ミカギがPOPを作成してくれたので、勝利は店の外に出、「OPEN」のプレートの下に吊り下げた。看板に描かれている微妙なマンボウよりずっとかわいらしい絵柄と色は、女性客を意識しているが故だ。
「後は、ケーキの人気が出てくれれば……」
都合が良すぎるかと赤面し、少し下がってPOPの写真を撮影する。
その間、歩道への注意を怠った。
勝利がそれに気づいた時は、誰かに左横を強く押された後だった。
双方の手元から、愛用の機械が相次いで路上に落ちる。
「ご、ごめんなさい」制服を着た長髪の少女が、勝利の携帯端末と自身のスマホを順に拾った。「傷がつい……って、これは」
「百合音ちゃん!?」勝利は、衝突した相手が隣の一戸建てに住んでいる高校生と気づき驚いた。
「ありがとう」拾ってもらった礼はするが、「珍しいね。百合音ちゃんでも、歩きスマホをするなんて」と控えめな言い方で窘める。
「私、まんぼう亭の前を通りたくなったら、画面を見るって決めてるんです。そうしないと、お店に通いたくなっちゃうから」
ライムに会いたいので。その言葉を飲み込む少女の我慢が、勝利には不憫に思えた。
たとえ不死の神に淡い思いを抱いても、互いの残り時間は桁数があまりに違いすぎる。人間が神との距離を詰めたところで、神は何もしてやれず、より苦しくなるのは人間の方だ。
決して深入りすまい、と少女は健気に耐えている。思慕と同量かそれ以上のエネルギーを注ぎ込み。
「偉いね、百合音ちゃんは」それは、嘘偽りのない勝利の本音だった。「でも、俺も百合音ちゃんも、ライムさん達と会う前には戻れないよね」
「……はい」
「あの神々が人を助けるところを、俺達は知ってる。ライムさん達の輝きとか美しさとか、優しさまで」
「はい」
二度、三度と少女は繰り返し頷いた。秘密を共有している者同士のやりとりは、言葉の外で共有されている部分の方が遙かに大きい。
「百合音ちゃんはしっかり我慢しているし、それができている。そんな君に、俺の頼みとして聞いてほしいんだ」
「え……?」
「新作ケーキの試食を頼んでもいい? 湖守さんが、一月限定のケーキを作ったから、店として普通の女の子の感想が聞きたいって思った」
「はいっ!! やります! やらせてください!!」
誘ってから、これは単なる同情だ、と脳内で自身に肘鉄を食らわせる。
ライムは、百合音がまんぼう亭に通う事をよく思っていなかった。
彼女は、後でライムに叱られまいか。後々百合音は、より苦しむ事になりはしないか。
当然の反応だろう。盛り上がった感情を一旦飲み込んで、少女がやや不安げに俯く。
「その……、私でいいんですか?」
「うちは、常連って男性客ばっかりだから」はぐらかしつつ頭を掻く。「きっと、そのくらいの協力はさせてくれるよ」
顔を挙げた百合音の視線は、まんぼう亭のドアを見つめていた。
「食べたいです。湖守さんのケーキ」
「どうぞ。店の中に」
ドアを開ける勝利の後ろにつき、少女が緊張した様子で店内に進む。
誰が入店したのか。湖守だけでなくライム達全員が、すぐに状況を理解した。
紳士の新緑の虹彩が、百合音を冷静に追っている。今のところ、お咎めはない。
勿論、何かを言いたそうではあるが。
「どうぞ。百合音ちゃんリクエストの紅茶セット」ケーキとティーポットを運ぶ湖守が、緊張したままの高校生の前にケーキ皿と紅茶一式を広げてゆく。
ホワイトチョコで整形されたマンボウが、生クリームを台座に立てかけられていた。上面を薄くコーティングしている濃茶色のチョコレートには、マンボウ型の白いアクセントがよく映える。
ふわりと鼻をくすぐるのは、オレンジの香りだ。
「名前は、『オレンジの海でお昼寝』だよ。ミカギが付けてくれたんだ」
ふるふると震える少女が、「あの……」とケーキを見つめながら葛藤していた。フォークを刺して形を崩すのが勿体ない、という事なのだろう。
「食べて食べて。見た目はどう?」
「はいっ! マンボウのチョコ、お店にぴったりです!!」
円筒状のケーキを、百合音がV字型に切り取る。
最初の一切れを口の中に含んだ途端、少女は至福の表情のまま全身の空気を抜いてしまった。
「ゆ、百合音ちゃん……?」
見る間に、長髪の少女が縦に萎んでゆく。湖守やミカギ、チリばかりか、ダブルワークもテーブルに歩み寄った。
カウンターから動かぬままライムも視線を揺らし、神々の動きから少女の状態を探っている。
「嫌われていないよ。良かったね、百合音ちゃん」
言ってやりたいと思った直後、小さな針が勝利の胸に刺さる。
やきもちなのかと疑い、両目が横線を描いた。誰に対する誰の思慕に、心をざわつかせているのだろうか、と。
月末が近くなった頃、毎日用意するマンボウのケーキは次第に売り上げを伸ばしていった。ティータイムにも数人だが、毎日客が訪れるようになる。
「百合音ちゃんが、ネットで紹介してくれたおかげでしょうか」テイクアウトでケーキを買って行く客を見送った後、またも身内だけになった店内で勝利がケーキの残りを数える。
百合音を話題にした後、カウンターにいるライムをちらと見る。無駄に心臓がドキリとした。
「彼女には感謝したい。これ程の変化があるとは」
やった、と内心踊り上がりたくなった。
後で、携帯端末から百合音宛にメールを送ってやるつもりだ。ライムが誉めていたと知れば、彼女の努力は最高の形で報われる筈なのだから。
「そういうところが、勝利だって偉いんだ」珍しく誉めるダブルワークが、右手を挙げて力こぶを拵える仕草をする。「本当に増やしやがった。この店の客を、ちょっとだけ、な」
「まだまだですよ」勝利もまた、力こぶを作る仕草を真似る。「あと、もう少し。もう少しだけ増やしたいんです」
「あら~? 言うじゃない~」意欲的な勝利に、ミカギがクッキーの詰め合わせを入れている籠の中を見せる。
ケーキと共に、マンボウ型のクッキーも売り上げが伸びていた。実に控えめな数字ではあるが。
カランと、まんぼう亭のドアが開く音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
笑顔の勝利とチリに迎えられ、二人連れの女性客がケーキを並べている冷蔵ケースに歩み寄った。下を向きながらも、しっかりとした口調でケースを指さす。
「このケーキを二つ、持ち帰りで」
-- 了 --