講義篇2:「恋愛」という特殊なゲーム
《「恋愛」という特殊なゲーム》っていうね、タイトルで恋愛の話をしようと思いますけれども。
要するに前回「恋愛は(数多ある)ゲームの中の一つ」だっていうふうなねそういう考え方をちらっとお話しまして、それについてもうちょっと考えすぎてみようと思うんですね。
恋愛という「特殊な」ゲーム
恋愛っていうふうなことは、ゲームであるからして、要するにいろんな特徴があると思うんですよ。いろんな特徴がある中で、ルールがあるっていうことも一つあるんですけれども、とりわけ今回取り上げてみようと思うのは――「特殊な」っていうふうなところをちょっと強調したくて、その「特殊な」っていうふうなところでとりわけ強調して取り上げる要素として、やっぱり挙げられるのが――恋愛という特殊なゲームにはですね、参加資格があるっていうことです。参加条件があるっていうことです。
例えばですね、私はソーシャルワーカーをやっているわけであって、サッカー選手をやってるわけではないっていうことで言うと、私はワールドカップには出場することはなかなか難しいと思うんですね。要するに、選手として世界のサッカーのピッチに立って……っていうことは難しいと思うんですね。
というわけで、やっぱりそのワールドカップに選手として出場するためには、やはり何かしらのトレーニングですとか、何かしらのクラブチームに所属して実績を上げるだとか、やっぱりそういう参加条件っていうものがあるわけですよね。参加資格があるっていうことですよね。
その上で、日本代表としてね、選抜されるっていうことがあって。要するにそこで何かしらの身体的な能力であったりとか、そういう個人の資質みたいなものが問われてしまう。「選抜」っていう、選ばれることがあるっていうことは、つまり、身体的なところであったりメンタル的なところであったり、その他個人の資質によってはワールドカップに参加できない人も出てくる。で、「選抜」っていうことからすれば、そういう(サッカーをやっている、クラブチームでプロとして所属している、等々)資格はある程度満たしてるんだけれども、選ばれない人がいるっていうね。
そういうことが起こるわけです。これはゲームであるからして、参加資格っていうところからして排除されてしまう人が出るっていうことは、「ゲーム」っていうことの抱えている本質的な部分なんですよね。
以上のことは、恋愛という特殊なゲームについても、当てはまるわけですよ。要するに、身体的なところ、あるいは精神的なところ、あるいは経済的なところによって、参加できない人が、どうしても恋愛に関しても、発生します。
で、それにプラスしてやはり、昨今世の中で問われている、そして私自身も当事者であるところの、セクシュアリティっていうね、個人の資質がやはり頑としてあるわけですよね。
加えて、参加資格をね、ある程度「恋愛」というゲームの中で満たしてはいても、必ずしもその「恋愛」っていうゲームのピッチに立つためには、何かしらの選抜が待っているというね。そういうプロセスの中で、選ばれないものは排除されるか、あるいは何かしらのとっつきやすいゲームに恋愛の代替物を見出すかとか、そういうふうなことになってくるわけです。
恋愛に「ふつう」は、ない
そのことについて、やはり暴力性みたいなところも突き詰めて考えていってもいいんですけれども、あるいは差別っていうところで、掘り下げていってもいいんですけれども。やはり「特殊な」ゲームっていうふうなね、ことを考えていくと、必ずしも「当たり前」とか「普通」とかっていう価値観を恋愛に関して形容詞として付けるっていうことは、なかなか困難なことだと思います。要するに、何か「普通の恋愛」とか、「当たり前に起こる恋する感情」みたいな、そういうところの言葉で言うときに、必ずその中にはそういうふうに当てはまらなくて排除されてしまっている、そのゲームに参加できない人たちのことが見えなくなっている、と私は思ったりするわけです。そういうことの中で、マイクロアグレッションみたいな感じでね、本人も気づかない何か差別的な形で、あるいは意識的かつ攻撃的な形で他者排除みたいなことをしてしまったりとか、あとは悪い意味での「内輪感」――自分たちの内輪ではこんな感じだけれども、あの人たちのことは知らない――みたいなね、そういう非常に多様性に欠けた連帯みたいなことをね、人と共にいる空間の中に作り出してしまうということですよね。それは、これからの時代においてはあまりふさわしくないことなのではないかなっていうふうなことは思いつつ、やはりもう一つですね、これは「恋愛という特殊なゲーム」っていうふうな言い方をするときの「ゲーム」っていうふうなことをね、強調するときに押さえておきたい考え方なんですけど、ゲームであるからして、別に勝つか負けるかっていうこと自体に関しては意味がないわけですよ。
この点を理解してもらうのに、ワールドカップというのはあんまり例としてなかなか難しいかもしれません。草野球とかの方が当てはまりやすいと思うんですけど、別に勝ったからといって優れた者になったとか、あるいはご褒美がついて、何かしらそれが名誉になるとかね、そういうことはあるかもしれないですけれども、それ自体において何か意味があるわけではない。ゲーム自体に何か意味があるわけではないんですよね。
ゲームをやる中において、その副産物として得られるものには確かに何かしらの価値があるかもしれないですけども。例えばお金だったりとか、友情だったりとか、出会いだったりとか、そういうことっていうのはゲームを通しての副産物としてね、あるいはそれをやってる間はドーパミンが出て、頭がフワッとなる幸福感みたいなね、そういうこともひっくるめればゲームの副産物でしかないわけですよね。
恋愛それ自体には何の意味もない
ゲームそれ自体には実は何の意味もないわけですよ。ゲーム自体はどんな形をしてもいいわけですし、ゲームを構成するルールのプログラミングは別にいろんな形があっていいわけです。ゲームそれ自体、一通りクリアしたからといって何か意味があるわけでもないし、ゲームをクリアできなかったとしても、それで何か不都合な意味が発生するとかそういうことはないですよね。
ゲームそれ自体が何の意味もない、無意味であるっていうね。
そういうことも私は押さえておきたいなぁっていうふうなことを思っていて、要するに「普通の」とか「当たり前の」恋愛とかって言うときに、恋愛ということに何かしら意味を付与しようとする、付け加えようとするっていうことが、意味を見出したがるみたいなね、何かそういうことがあると思うんですけれども、「ゲーム」として捉えてしまえば、その恋愛っていうこと自体には実は何の意味もなくてですね、むしろ恋愛から得られる何かに人々を惹きつけられるみたいな、そういうふうな分析をしていった方が楽しいのではないかなっていうふうに思っていて、であるからして「恋愛という特殊なゲーム」っていうふうなことで「恋愛」という概念を認識したいというふうに思っているという提案です。
もうちょっといろんな話をね、試みてみようと思いますけれども、とりあえずは今回はこれまでということで。言ってることがわかんないよ、みたいなこともあると思うのでそういう時は気軽にお便りくださいということです。では。
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