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理論篇5:総括

総括

 恋愛は社会的構築物であり、ゲームである。

 それが意味することはまず第一に、特殊な意思決定の主体を要請するということである。この意思決定の主体は「特殊」であるからして、身体的な要因・社会的な要因・その他さまざまな要因から、主体になれる人の数は限られている。したがって、恋愛への参加は生まれながらにして誰もに自然に与えられているわけではない。第二に、相手に好意があり、協力関係を築くことが出来る環境にあることを必要とする。これは恋愛をしたい当人の心身の健康はもちろん、その時々の時代における社会の状況によっても大きく左右される。最後に、誰からも強制されない自由が保障されているということである。これは、同意や本人の意思と関係なく無理やり恋愛関係を強要されることがあってはならないという意味だけでなく、周囲の人間関係だけでなく社会全体から由来するあらゆる同調圧力が存在しないこと、存在するとしたらそれを許さない態度をとることも意味する。
 しかし、現在の社会の状況においては、依然として「結婚や出産につながるプロセスとしての恋愛」が優勢であり、「ゲームとしての恋愛」はマイナーであるか、アナーキーな思想として扱われるのが関の山であろう。
 男女二元論と異性愛主義に基づいて「世の中の誰もが異性に恋をしたことがあるし、人間である限り自然と恋をするはずだ」という誤った観念を社会から植え付けられた人々は、常に〈パパ〉に承認されるように振舞わないといけないというプレッシャーの中で生きている。パートナーに対しては、「結婚式では〈パパ〉を喜ばせないと」「いつかは〈パパ〉にも孫の顔を見せてあげたいね」とプレッシャーを与え続け、無意味なテスティングが繰り返される。〈ママ〉は〈パパ〉の代弁者として、独身の息子・娘に「そろそろいい人見つけて、結婚したら……」とプレッシャーを与え続ける。あぁ、そうとも。人々が与え合う「結婚や出産につながるプロセスとしての恋愛」にまつわるプレッシャーは、ロマンティック・ラブ・イデオロギーのヒエラルキーをより強固に固定していく。しかし同時に、我々はそのアンシャンレジームの制度的疲労(ヒステリシス)の中で、苦痛を伴いながらうめき声をあげる。なぜ私はモテないんだろう、否、なぜ「モテ」などということを考えさせられなければいけないのだろう。
 『恋愛=ゲーム論』は、「なぜ自分はモテないのか」ではなく、そもそも「なぜ恋愛はこうも簡単でお手軽でないのか」を考えるために展開されてきた一連の論考である。純粋な思惟のみに基づいた判断においても、プレイヤーの心的態度は3つまで、必要な同意の種類も3種類まで、基本ルールも5つのみの、極めてシンプルな原理原則に基づいて行われる簡単なゲームであることは明らかだ。ゲーム理論を応用した数学的な記述によっては、もっとシンプルにクリアに記述できるかもしれない。
 私たちは、ロマンティック・ラブ・イデオロギーが〈パパ〉‐〈ママ〉‐〈子〉の〈伝統家族〉の三角形と〈恋愛〉→〈結婚〉→〈出産〉の社会的再生産のプロセスによって指数関数的に増大させきたあらゆる制約、あらゆる不要な慣習・戦略、あらゆる無駄なルールをはっきりと嘲笑うことにしよう。そして、自分の人生に必要なものだけをシンプルでミニマルな形に集約するために、三位一体状態からの「恋愛」だけの単離、並びにゲーム化を推進する。
 私たちが「シンプルな恋愛=ゲーム」を完成させた時、我々は純粋な享楽として「恋愛」というゲームを楽しむ日が来るし、恋愛をする自由に加えて、どんな人を好きになってもいい自由さえ、手に入れるだろう。また、好きになった人の数に応じて、様々な形をした親密性を自らDIYして楽しむようになるだろう。そして、社会の再生産形式はより暴力の少ない形で再編成される。

問いと主張

Q1:恋愛がゲームであるとはどういう意味か?

主張1:恋愛は社会的構築物である
主張2:恋愛はプレーヤー間で利得を争う戦略的状況の一種である
主張3:恋愛には規則がある
主張4:恋愛には参加条件がある

Q2:恋愛がゲームであるとして、どのようなゲームなのか?

主張5:恋愛とは、性愛にかかわるあらゆる同意を取るゲームである

Q3:恋愛というゲームにおいて、プレイヤーであるとはどういう意味か?

主張6:プレイヤーは、意思決定の主体であり、かつ恋愛特有の心的態度をも要請される

Q4:恋愛というゲームにおいて、課題(ミッション)は何で、何においてミッション達成(クリア)なのか?

主張7:恋愛におけるあらゆる場面において、3種の同意が、その時々の要請に応じて達成されなければならない

Q5:恋愛というゲームはどのようなルールのゲームなのか?

主張8:恋愛には、基本ルールと、同意に基づいて定められる個別ルールがある

Q6:恋愛はそもそも誰にとって必要か?

主張9:恋愛は社会が用意したゲームであり、社会にとって必要であるにすぎない

Q7:必要だとして、なぜ必要だと考えられるか?

主張10:恋愛が社会にとって必要であり、有用でもある根拠は、単にロマンティック・ラブ・イデオロギーが社会の再生産に役立つ限りにおいてである

Q8:不要だとして、なぜ不要か?

主張11:ロマンティック・ラブ・イデオロギーが機能不全になった社会においては、恋愛はあってもなくてもかまわない
主張12:いずれロマンティック・ラブ・イデオロギーは完全解体され、人々は「恋愛の自由」を手に入れるだろう
主張13:プレイヤー数=ゼロでなければ、半分以下に減っても構わない

Q9:恋愛はどのようなゲームであるべきか?

主張13:恋愛を純粋な享楽のためのゲームとして設計するとき、人は必ず一度はアナーキストであらねばならない
主張14:恋愛に代わる新たな親密性のゲームをDIYしよう
主張15:恋愛はもっとミニマルなゲームであるべきだ

主張の総合

  1. 恋愛は明らかに社会の中で作られた特殊なゲームの一形態に過ぎない。にもかかわらず、「世の大多数の人は恋愛をしたい/している/したことがある」と誤って社会から思わされている。それ故、人々は「恋愛することは人として自然」という誤った観念を抱いてしまい、自覚的であれ無自覚的であれ、恋愛しない人や恋愛に困難を抱えている人を差別し排除してしまう。

  2. 恋愛とは、性愛にかかわるあらゆる同意を取るゲームであり、同意のプロセスそのものである。また恋愛は、プレイヤーの3つの心的態度、3種類の同意、5つの基本ルールからなる、本来極めてシンプルな原理原則に基づいて行われる簡単なゲームである。今日見られるような極めて、複雑で達成が困難なゲームになっているのは、本来恋愛にはなかったはずの全く別の要因が絡んでいる。

  3. かつて恋愛は、結婚・出産と合わせて三位一体になることによって社会の再生産システムに埋め込まれており、それ故恋愛は誰もが一度は経験すべきもの、社会にとってなくてはならないものとして重要な意味を持っていた(ロマンティック・ラブ・イデオロギー)。しかし、そのイデオロギーが機能不全を起こし自壊しつつある今日では、恋愛はただのゲームであり、純粋な享楽であり、参加するもしないも自由となった。いずれ社会は脱〈家族〉化を経験し、恋愛を入り口としない社会の構成員の再生産方式を編み出すと同時に、「シンプルな恋愛=ゲーム」としてプレイヤー数を減らして恋愛を存続させるであろう。

  4. ロマンティック・ラブ・イデオロギーは恋愛に関する規則と戦略を極度に複雑にし、合意形成が極端に困難な難易度の高いゲームにしてしまった。そればかりでなく、異性愛主義に必ずしも当てはまらない愛の形を望む人々に対して恋愛文化の植民地支配を繰り返してきた。ロマンティック・ラブ・イデオロギー亡き後のこれからの恋愛は、手で数えられる程度の合意形成を達成すればよく、シンプルでミニマルな最小限度の取り決めで運用されるより簡単なゲームになるべきであろう。そして同時に、恋愛に代わる無数の親密性の形があってよいし、なければDIYすればよい。


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