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講義篇1:「恋愛」のない社会を想像してみよう

この記事は、2022/06/19にRadiotalkで収録したものを文字起こしして、さらに修正を加えた内容です。
元音声が聞きたい方は以下のリンクからどうぞ↓
#Radiotalk
#Non Shikaneの考え過ぎRadio

「恋愛」の話をしよう

《恋愛の話をしよう》っていうテーマのトークをしばらく続けてみようっていうふうにね、思ってまして。

 で、何でこういうことを考えてるかっていうと、恋愛の話をもうちょっと皆、掘り下げてやっぱり聞きたいのかなーっていうこと思ったりとか、あとは結構Radiotalkで恋愛の話をしてる方が沢山いらっしゃってて、私もいろいろ思うところがあったりとか考えすぎたりとか、そういうこともストックとして色々あるんだけれども……
 私、思うんですよ。
 多分恋愛って、皆さんがあんまり「考えすぎる」っていうことに向かないテーマっていうふうにね、思っているんじゃないか
 なので、私はその「考えすぎる」っていうことをもって、向き合ってみようかなと。
 あるいはその「考えすぎる」ということにおいて、恋愛っていう概念との付き合い方みたいなね、そういうことに思いを巡らしてみようと、思ってみたりするわけですよ。

「恋愛」のない世の中って?

 で、手始めにまず、世の中に「恋愛」っていう言葉がなかったりとか、「恋愛」っていう概念がない世の中だったら、どんな世の中になるんだろうなー、っていうことを私は思ったりとかするんですよ。
 むしろこの「恋愛」っていうふうなね、概念があるから、皆さん人を好きになるとかね――私みたいなLGBTQみたいな、Queerみたいな、そういう属性がある人間にとっては、難しいとか、大変とか、そういうことをよく言われますけど――そういう恋愛するのが「大変」とか「難しい」とかね、そういうふうなことは、そもそも「恋愛」っていう発想だったり概念だったりね、そういうのから自由になれれば、別にいいんじゃないかな、いらないんじゃないかな。難しく考えたりすることもなければね、大変だと思うこともない。
 というわけで、「恋愛」っていう概念だったり言葉だったりがない状態で、人と付き合えないかな、人とつながれないかなっていうことを私は思うんですよね。
 逆に言えば、「恋愛」っていうことに何か特別な意味を、皆さん持たせ過ぎている。あるいは、「恋人」っていう属性に、本来人間に期待し過ぎてもしょうがないことを、「恋人なんだから期待していいよね」と考えすぎたり思い込みすぎたりしている。 
 だからこそ、恋愛とか、相手を好きになるとか、性的にムラムラするとか、そういうことが全くない社会、そういうふうな世の中ってどんな感じの世の中なんだろうなーっていうことを、試しに一回想像してみようとしているわけです。言い換えれば、ムラムラするとか好きになるとか一生添い遂げたいというふうに思うのって、結局社会に思わされてるだけなんじゃね、っていうね。社会に思わさせられて、皆さんそうしてる。だから、そういうのから解放されれば、むしろ余計なことを考えずに済んで楽、みたいなね。そういうこともあるんじゃないかなっていう思考実験でもあります。
 どうでしょうかね。
 皆さんにとって、恋とかって、煩わしくないですか。恋とか愛とか考えるのって煩わしくないですか。そういうのを考えずに済む日が来るとしたら、割とその日ってハッピーなんじゃないですか。
 でも、人によってはアンハッピーって考えるんでしょうね。ディストピアって考える人もいるんでしょうね。だとしたら、何でディストピアなのか、っていうことも深く考えすぎていただきたいところではありますけれども。文句とかそういうのはまとめてお便りとしてください(笑)面白く読まさせていただきたいと思います。
 そういうふうなね、恋とか愛とかっていうのは自分たちにとってどうして必要なんだろうか? っていうね、そういうところをもうちょっと掘り下げたいですね。
 私の場合、そう問われて思いつくところで言えば、「生殖における求愛闘争」みたいなね、人間特有のそういうところの発展としての「恋愛」みたいなね、そういう側面があるのかなとか、ぼんやりさっき思いついたんですけれど、別にそういうものに殊更「恋愛」 って名前付ける理由もないですよね。わざわざ恋とはこういうものだ、愛とはこういうものだ、みたいなねぇ、そういうことをくどくどしく考えなくてもいいようにも思うんですけどね。

恋愛はゲームである

 やっぱり、だからある種のゲームみたいなものがあるわけですよね。「恋愛」っていうゲームがあるんですよ。社会的に構築されたゲームみたいなのがね。でもって、それはある一定のルールがあって、ルールに適してない人たちが排除されたりとか、あるいは場合によっては処罰の対象になる、みたいなね。そういうことの中で交通整理をしていってですね、そういう交通整理の仕方とか、ルールの決め方とか、そのルールの個数とかはね、そういうのは国によって文化によってもちろん違うと思いますけれど、まぁ、あとは宗教によってですね、宗教とかも関係あったりすると思うんですけれども。そういう、パートナーの決め方だとか、取り決めだとかね、あるいは儀式というところでいえば「結婚式」とか、その宗教的なところだったりとか社会的なところだったりとかね、そういうところにゲームという側面がありますよね。
 そういう「結婚式」とか、そもそも「恋愛」っていうゲームがない世の中って、どういう世の中なんだろうなぁ、と。そういう世の中、そういう社会における、例えば「生殖」だとかね、あるいは「つがい」「パートナー」っていうかな、そういうもののあり方っていうのは、どうなんだろうなぁ。ドライなのか、それとも恋とか愛とかをとやかく言う社会よりも親密なのかっていうのは、分かんないですよね。
 それに、人によって「恋愛が存在しない社会」のイメージは異なると思うし、どんなイメージなのか色々聞いてみたいですよね。
 私は思うんですけど、多分、楽だと思います、「恋愛が存在しない社会」って。男/女ってわざわざ分ける必要もなくなれば、そもそもLGBTQっていうことも殊更言わなくていいような、そういう社会のような気がするんですよね。もうちょっとボーダレスで自由な社会のような気がするんですけども。そういう意味で割と生きやすい社会なんじゃないか、っていうふうに私は思ったりとかするんですけれども、どうでしょうかね。
 じゃあ、我々はあえて生きにくい世の中、縛りがある世の中、縛りゲーをやって楽しんでるという、そういうマゾヒストの集まりなんだろうかっていうことは、逆に思ったりとかするんですけれども。それも分かりません。分かんないです。
 別に自分のことをマゾヒストだと思ってマゾやってる人って多分いないと思うんですよ。でも、何かに隷属しているというかね、「何かに縛られてるなぁ」「何かの言いなりになってるなぁ」っていう感覚を、ふとした瞬間に持ってしまう。けれども、普段は「何かの奴隷になってる」みたいなそういうことも思わずに、恋とか愛とかそういうことについて何かを思って、考えていることなんじゃないかなって思って、「恋愛のない社会」ってなんだろうね、っていうふうな話をしてみたわけです。
 たぶん、「恋愛」っていう言葉の中で、私たちは何かの奴隷になってるのではないか。そこを、私はある種の出発点にしてみたい、ある議論の出発点にしてみたい、っていうことです。

 ちょっと最初からカタい話になっちゃいましたね。こういうカタい話もしつつ、ゆるい話もしていければいいなって思ってます。ではでは。


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