Gutto NEET Note 03
「スクワットしながら話ししましょか」
そう告げられて始まった。
グッドニート養成講座第3回目の講義。
講師はモテアマスの頭取、げんとぉ〜さん。
思えばげんとぉ〜さんは、私がモテアマスという存在を知るに至ったきっかけを作ったキューピット的存在である。
彼が「コミュニティシャッフル運動会」と「シェア街」というコミュニティの連絡役・橋渡し役として暗躍していなければ、私はコミュニティシャッフル運動会に参加できなかったわけだし、
コミュニティシャッフル運動会に参加しなければ、モテアマス三軒茶屋を知らないで過ごすという悲しい世界線が用意されていたかもしれない。
げんとぉ〜さんの講義は殆どが対話形式。
げんとぉ〜さんがスクワットしながら問い、私がスクワットしながら答える。
結果的に、自分が東京に越してきた目的から、プライベートな恋愛の話まで、延々スクワットをしながら話していた。
それだけといえばそれだけだったが、メンタリングとしてはなかなかに強力で、私自身、人に話すつもりはなかったけどずっと抱えてきたことが口から漏れていた。
あまりにもデリケートな内容を含むため、具体的に何を話したのか、このnoteでは割愛させていただきたい。
ここでは、多少のエッセンスを拾いながら、講義の振り返りをしていきたい。
鹿音のんはどう愛されたいのか?
「のんさんにとって『愛』って何ですか?」
げんとぉ〜さんに問われて一番答えるのが難しかった問いである。
私にとって、愛って何だろう。
私は東京に来て、どんな人に出会いたいのか。
どんな人から、どう愛されたいのか。
今まであまり考えたことがなかった。「グッドニート=愛される存在」を目指してここまで講座を受講してきたが、その「愛される存在」のイメージが私の中で具体的じゃなかった。そもそも、自分自身が愛されているという感覚を持てたことがあまり人生の中で少なかったから考えるのが難しいのか、それともどうすれば普段から愛されるかということをあまり意識して行動してこなかったからなのか……おそらくそう言った原因探しは瑣末なことなんだろうと思う。
私にとって、愛されるとはどういうことなのか?
私はスクワットしながら、否応なしにその問いに向き合わざるを得なくなったのだった。
そんな中で出てきた一つのワードが「魂と魂の深い交わり」だった。
魂と魂の深い交わり
そういえば、魂と魂の深い交わりに迫りかけたことが最近あった。
とある女子とシェアハウスのイベントで知り合った。
その子がやっているクラファンに支援したこともあり、顔と名前は知っていたが、会うのはその時が初めてだった。
シェアハウスのイベントでは、恋愛に関する対話イベントをやっていたこともあり、私もそうだし彼女も恋愛の話をオープンに語り合っていた。その後も、お互いの私生活のことから、性遍歴やセクシュアリティに関することを夜通し、オープンに語り合った。
その時は、何とも言いようのない安心感に包まれていた。単純にセックスでは決して得られないような充実感のようなものを感じながら、とにかく、その場にいて言葉を交わしているだけ、その場に存在しているだけなのに、愛おしさを感じていた。こんな時間が長く続いていればいいのにと思った。
その彼女とは、イベントの後会う機会も何もないまま、ただほんのりとした好意と、あの時のほわんとした感覚だけが残ったまま、今に至っている。
あの時は、対話イベントによって「自己開示」がお互いにスムーズにできていたことが、魂同士の深い交わりに近いコミュニケーションを用意してくれていたのだと思う。だが、基本的に日常で起こることはそうそうない。親しい関係になら自己開示できるかというと、案外そういうタイミングはなかなか訪れないし、訪れたとしても「親しくなればこそ、話せない」ということもある。「話したい気分ではあるけど、この人じゃない」と思ってしまうこともあり、話す相手は誰でもいいわけじゃない。
自己開示したい人に、無理に受け取らせるような関係にならず、かと言って遠慮して開示しないままにしておく結果にならないように自分をオープンにしていくには、どういったことが必要なのだろうか。
すべては自己受容から
シェアハウスの対話イベントの予習として、会場にいる人によく読まれていた本がある。
私も半分程度読んでみた。要するに「自己受容」が大事、という内容だった。自己受容出来ていないと、ヤリチン気質やオタク(メンヘラ)気質だったりする「あなたのことを愛してくれない」男を引き寄せてしまう、という。
思えば、私の最初の恋愛はまさに、自己受容できていなかったが故に、共依存の泥沼にハマって、相手に対する性的欲求が暴走してしまうという最悪な恋愛だった。ここにはとても書けないような、およそ「最悪の結果」と言うべき地点に行くところまで行ってしまった。10年以上も前、私が22歳か23歳くらいの時のことだ。今なら確実に警察沙汰になっていてもおかしくない。そのような恋を初めての恋愛として経験してしまってから、私は好きになった相手とまともに交際することが考えられなくなってしまった。
あの恋愛から10年以上経った。その間、MtFだと自認してなりたい女性像を追い求めていた時期や、セクシュアリティについて学んだことを活かして性差別問題に取り組んでいた時期、性暴力を生み出さないための性的同意を学んでいた時期、性暴力が日本で野放しに立っている現状を問題視し、性風俗産業という暴力装置について警鐘を鳴らす声に賛同していた時期……様々な学びを私なりに経てきた。
そんな中で、気づいたことがあるとすれば、「私は未熟な知識と人間関係に対する恐れを抱いていたが故に、自分も他人も受容することができず、結果的に性的に他人を傷つけ、自分自身も深く傷ついてきた」ということだ。
知識が未熟なのは、その多くをこの社会が責任として負うべきだと今は考えている。そもそも、まともな性教育を小・中学生の頃から私に施してくれなかった社会が悪い。まともな性教育が大事なことだと日本社会が理解していさえすれば、性的同意をキチンと取れる男性が増え、コンドームの扱い方、性病、妊娠・中絶に関することで私を含め誰もが迷わなくて済んだのだ。私は、先の恋愛における失敗経験から来る懺悔の念から、30代までにかなり性に関する学びを積極的にかつ徹底的に深めてきた。その結果、幸いにも、私の周りには性に関する深い学びをしていらっしゃる方々との縁にも恵まれてきた。
だが、他の誰でもなく私自身で克服しなければならないことも同時にあった。それが、人間関係・コミュニケーションに対する恐れである。
コミュニケーションに対する恐れを手放す
性的に深く傷ついてきた人間である、ということをまずは私自身受け入れた上で、その傷つきを用意してきた様々なブロックについて今一度考えてみようと思う。
周りが私に関してどう見えているのかは分からないが、私はかなりの人見知りで、寡黙なタイプの人間である。かつ、集団の中にいるとすぐに疲れてしまう。集団行動が得意じゃないし、チームで何かをやるとなった時にあまり上手に立ち回れた試しがない。
いつも、コミュニケーションに対する恐れがつきまとって不安になる。例えば、こんな不安である。
断られたらどうしよう
相手を不安にさせたらどうしよう
上手に話せなかったらどうしよう
バカにされたらどうしよう
相手を怒らせたらどうしよう
相手に迷惑をかけたらどうしよう
……
こう言った不安は、私じゃなくても多くの人がコミュニケーションの上で感じている不安かもしれないが、私はその不安が人一倍大きいのだ。
これらの不安によって、持ち前の「環境調整能力」が鍛えられてきたところはある。だが、この不安と環境調整能力がタッグを組んで悪いように働くと、例えば
「相手は別に怒ってもないのに、怒ったように誤判断して無意味にへりくだってしまい、その態度が却って相手に嫌われてしまう」
「不安にさせないようにしようと取りなした結果、何も起きなかった一方で、絆も深まらなかった」
といったことも往々にして起こってきた。
そうやって可もなく不可もないところに落ち着こうとする私は、つくづく、相手に刺さらない人間だと思う。
本来なら、断られたり、不安にさせてしまったり、上手に話せなかったり、バカにされたり、怒られたり、迷惑をかけたりの繰り返しの中で、誰もが「強い絆」の作り方を学んでいく。私の人生には、そうした荒波の中で本来磨かれるべき人から「相手にしてもらえる」ための積極的な努力や「相手にしたい」と思わせるように自己を意識するといったことが圧倒的に欠乏してきた。人との衝突の中で何かを学ぼうとするよりも、衝突を避ける代わりに他人とコミュニケーションをすることまで避けてきた。その結果、孤独でいることに満足しようと必死になりながらも、内側には孤独になることへの恐怖(さみしさ)や愛情への飢え渇きを抱え込むことにもなってきた。
愛されたい。激しい恋に落ちたい。一人でいたくない。
でも、他人が怖い。自分を否定されたくない。だから、一人でいる方がラク。
こんなことをグルグル延々と繰り返してきたような人生だった。
なら、もう終わりにしよう。
ケンカしても、怒られても、嫌われたとしても、相手に刺さる何かを、残そう。
スクワット問答から見えてきたこと
げんとぉ〜さんとスクワットしながら対話した、と人に言ったら返ってくる答えとして「え、なんでスクワットしながら?」と聞かれるだろうが、やってみると「これはスクワットしながらじゃないとな」という理由がわかるはずだ。
思考を落とすと自分の感情に向き合える
普通に座りながら対話したのでは、なかなか思考を落とすことはできない。
お互いスクワットしながら、しかも正しいフォームを意識しながらやるとなれば、投げかけられた問いに対してしっかり考えた上で返すということが難しくなる。加えて、スクワットという運動をしていることによって、小賢しい取り繕いがだんだんできなくなってくる。口から出てくるのは、本音、本心だけになってくるし、結局本心や本音が出てこなかったとしても、スクワットしているわけだから、その間鍛えた筋肉は裏切らないわけである。
げんとぉ〜さんの問いかける「なぜ?」も、タイミングといい内容といい絶妙に良かった。問いを投げかけて、出てきた答えに対して更になぜと問うていくのは、いわゆる「なぜなぜ分析」と言って、人の心を扱う相談のプロや問題解決のプロも使うテクニックである。げんとぉ〜さんは実になぜなぜ分析が上手い。まるで、私の心の中に潜んでいる核心に向かってドリルで掘り進められるような感覚だった。だが、嫌な感じはしなかった。それは、げんとぉ〜さんと私との間にあらかじめ心理的安全性があったからだと思う。しっかり話したのは、ある意味今回の養成講座が初めてだったが、それ以前にお互いに何度もモテアマスで会って、会うと「あ、いるな」くらいには認識しあえていたからこそ成り立っていたと思う。
日常の中で本音で語る、本心を曝け出すのはなかなか勇気がいるし、難しい。げんとぉ〜さんはスクワットをしながら問いかけることでそこをうまーくクリアしながら、本気のメンタリングをしてくれたような感じがした。大変ありがたかったし、学びになった。
そして、今後に活かしていけそうなテクニックも教えてもらうことができた。それが「カフェ行く? それともタイ行く?」だ。
恋バナしようよ!
「カフェ行く? それともタイ行く?」と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか。
「え? タイ?」と聞き返すだろう。
「そう、タイ」とあっさり答えつつ、カフェに行くか、タイに行くか、二択を迫るのだ。
大概の人は、カフェ行く、となるだろう。カフェデート成立である。
で、タイ行く人はよっぽどだなと思うが、もし「タイ行く!」と言われたら本当にタイに行くのだ。
……という心理作戦を教わった。なかなか強力な武器すぎて、私に使いこなせるだろうかと不安がよぎる。
とりあえず、「タイ」を「RingNe」に変えて、好意を抱いているAさんに送ってみた。
その後の顛末だが、送った私がアワアワしすぎて、「本当は、よかったら今度ご飯食べ行きませんかって伝えたかったんです(すみませんでした)」的ネタバラシをしてしまって、結局そのまま返信がない状態が続いている。
恥ずかしがらずに、「そう、RingNeです! 一緒にいきましょう!」くらい返しておけば良かった。その意気地が自分になかった。実に恥ずかしい。
書きながら思うのだが、こういう恋の話は書いていて本当に恥ずかしい。できれば内輪だけに話すのが丁度いい話題なんだと思うが、今回は随分なチャレンジをしている気がする。
ゆくゆくは、気軽に人と恋バナができるような関係性を築きたい。