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理論篇3:恋愛はそもそも必要か不要か

Q6:恋愛はそもそも誰にとって必要か?(→主張9)
Q7:必要だとして、なぜ必要だと考えられるか?(→主張10)
Q8:不要だとして、なぜ不要か?(→主張11・12・13)

主張9:恋愛は社会が用意したゲームであり、社会にとって必要であるにすぎない

《目的》

 恋愛はまず社会が欲望し、それから個々人の欲望へとすり変わっていくのであって、その逆ではないことを示す。

《原理》

 主張1より、恋愛は社会的構築物にすぎないことを確認した。
 あらゆる社会的構築物に共通することは、それらが存続している限りにおいて、社会が必要だとみなしているということがある。
 ゆえに、まず第一には、個々人にとって恋愛が必要かどうかを考えるのはナンセンスであることが分かる。人生にとって恋愛が必要だと感じる人がいるかもしれないし、必要と感じない人もいるかもしれない……そういうことは、社会にとってはどうでもいいことである。社会が恋愛を欲望するということは、この社会に参画する限り何らかの形で恋愛してもらわなければ困る、ということである。
 従って、次に考えなければならないのは、社会にとって恋愛というゲームが必要であるとはいかなる理由においてか、ということである。

《効果》

 我々が恋愛に関して「抱いている」と思っているあらゆる観念は、実は社会に「思い込まされ」た観念であることに、人々は気付くようになるだろう。

主張10:恋愛が社会にとって必要であり、有用でもある根拠は、単にロマンティック・ラブ・イデオロギーが社会の再生産に役立つ限りにおいてである

《目的》

 そもそもなぜ我々は「恋愛・結婚・出産の三位一体説(ロマンティック・ラブ・イデオロギー)」を社会から真実だと思い込まされているかを考察する。

《原理》

 ロマンティック・ラブ・イデオロギーは社会が社会自らを再生産するための理論的装置である。そこでは結局、恋愛は「純粋な享楽のためのゲーム」ではなく、「続く、結婚・出産に至るためのプロセス」に成り下がってしまう。
 なぜ、恋愛は純粋な享楽のためのゲームではいけないのか。
 社会は、人々の素朴な異性愛感情の奥に、所有・支配欲(→一生涯添い遂げるモデルとしての結婚)、生殖の欲求(→多産と血族に因る家族の形成)を文字通り「発見」した。これに、自己実現欲求を接ぎ木し、ヒエラルキーを構成したものが、今日ロマンティック・ラブ・イデオロギーとして知られるようになる、大家族を頂点、独身者を底辺に置くヒエラルキーである。これに加えて、社会にとって重要な発見に、ジェンダー、とりわけ男女二元論と男女の不均衡(有り体に言えば、男性優位主義=マチズモ)がある。
 前ロマンティック・ラブ・イデオロギー社会においては、結婚・出産を重点的に社会が適正に管理することに重きが置かれていた。素朴な恋愛感情はないわけではないが、社会にとっては余計なものであり、結婚や出産は自己実現の目標たりえなかった。
 ロマンティック・ラブ・イデオロギー社会(=自由恋愛主義社会)においては、人々の素朴な恋愛感情をあえて肯定する。その代わり、自己実現欲求に接ぎ木して、社会における成功モデルとしての「大家族」をゴールにするよう仕向けた(「お前も将来は一家の大黒柱だな」「あたしの夢はお嫁さんになることなの」)。そうして社会が恋愛から結婚、出産、子育てまでを一元管理し、法的にも物理的単位でも感情面でもあらゆる人間のライフコースを一括統制する社会を実現した。そして、管理し統制する主体を、家族における〈パパ〉と〈ママ〉、とりわけ〈パパ〉(=家父長)に担わせたのである。今日でも重要視されている「パートナーを家族に紹介する」儀式において、重要なのは〈ママ〉の承認よりも〈パパ〉の承認であることは、ここから由来する。
 このことにより形成される〈伝統家族〉は、社会・国家にとって都合がいい。なぜか。

  1. 人々の素朴な異性愛感情と自己実現欲求を利用しているため、社会の構成員は強制されるどころか自ら望んでロマンティック・ラブ・イデオロギーの担い手になろうとするため。

  2. 〈パパ〉(=家父長・行政・国家)のやることは、承認のハンコを押すか、押さないか、それだけで済むため

  3. 〈パパ〉‐〈ママ〉‐〈子〉の三角関係を固定させることにより、比較的安定的に社会の構成員を再生産でき、また管理・統制もやりやすいため

 よって、このシステムが都合がいい限りにおいて、ロマンティック・ラブ・イデオロギーは何度でも再生産される。

《効果》

 これまで恋愛が必要だった理由はあくまで「誰もが、恋愛も、結婚も、出産も、完璧にこなしてほしい」という社会の身勝手な欲望によって生じていること、そしてそのことがマチズモとしての男性特権、すなわち〈パパ〉が持つ権力の肥大化、増長を許してきたことを、人々は理解するだろう。

主張11:ロマンティック・ラブ・イデオロギーが機能不全になった社会においては、恋愛はあってもなくてもかまわない

《目的》

 ポストロマンティック・ラブ・イデオロギー社会における恋愛について考察する。

《原理》

 現在は、ロマンティック・ラブ・イデオロギーが機能不全になった社会(=ポストロマンティック・ラブ・イデオロギー社会)である。〈伝統家族〉としての大家族が〈核家族〉に変わった時点で、ロマンティック・ラブ・イデオロギーは全盛期を迎え、同時に〈パパ〉‐〈ママ〉‐〈子〉の三角関係にヒステリシスが生じ、制度疲労を起こして自壊を始めた。なぜか。

  1. 「誰もに素朴な異性愛感情がある」という神話の崩壊(=LGBTQ+の「発見」)。加えて、自己実現形態の多様化により「家庭を持つ=自己実現」というモデルに疑問符が付けられるようになったため

  2. フェミニズムによる「性暴力」概念の発明。これにより、〈パパ〉の特権に誰もが疑問を持ち始め、〈パパ〉がこれまで強いてきたあらゆる抑圧に対する大規模な抵抗運動が各地で生じたため

  3. 結局〈核家族〉になっても少子化・人口減が止まらず、かといって〈伝統家族〉の時代に多くの人が戻りたがらないため

 「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という言葉が発明されたのは、社会がポストロマンティック・ラブ・イデオロギー時代を迎えたからに他ならない。今や、そのアンシャンレジームは社会にとって有害であることが明らかになっている。数限りない暴力と差別を孕んでいるだけでなく、社会の再生産システムとしても問題を孕んでいる、いや、機能不全を起こしてさえいることも。
 そうなれば、「恋愛」と「結婚」と「出産」は、三位一体であるべきではない。むしろ、それぞれを単離して、各人のライフコースや好みに応じてバイキング形式でお皿の上に並べ合わせたり、単品で頼んだり、あるいはどれも選ばなかったり、自由に出来るようになればいい。
 加えて、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの時代には、「恋愛」一つとっても「男/女」の二つのコース料理しかなく、しかも選べる料理の種類は限られていた。おまけに、「恋愛」が終わらないと「結婚」「出産」にありつけなかったのである。これからは、「恋愛」を選ばずに「結婚」や「出産」を選べるようになったって構わない。何しろ、当たり前のことだが、「恋愛」以外にも無数に親密性のある関係性(=ゲーム)の選択肢はあるのだから。
 この意味からも、恋愛はゲームである。ポストロマンティック・ラブ・イデオロギー時代においては、「結婚や出産に至る重要なプロセス」という意味(強制力)を失い、恋愛はそれ自体に意味はないただの特殊なゲームと化した。
 これからの恋愛は純粋な享楽、こう言ってよければ娯楽でありゲームであって、恋愛感情を持てる人だけが楽しめばいいものだ。誰にも参加を強制されないし、強制はあってはならない。つまり、人生においてはもちろん、社会にとっても、恋愛は、あっても、なくても、かまわない。

《効果》

 人々は現代=ポストロマンティック・ラブ・イデオロギー時代において、「自由恋愛」から脱して更に「恋愛の自由」をも社会から勝ち取ったことを心から喜ぶだろう。

主張12:いずれロマンティック・ラブ・イデオロギーは完全解体され、人々は完全なる「恋愛の自由」を手に入れるだろう

《目的》

 「自由恋愛」ではない、「恋愛の自由」という概念を示す。

《原理》

 これからの社会はロマンティック・ラブ・イデオロギーを完全に解体して、「恋愛の自由」が認められ、保証される社会になるべきだ。
 「恋愛の自由」とは次の3項目からなる。

  1. 恋愛する自由:各人のセクシュアリティに応じて恋愛というゲームをいつでも始めてよい。パートナーを自由に選択できるのはもちろん、恋愛する権利を年齢・セクシュアリティ・障害・社会的地位・経済状況等によって制限されることがない。

  2. 恋愛しない自由:各人は一生涯恋愛しなくても、社会から不当に扱われたり差別されたり低くみられることがない。また、「人生で一度も恋愛しない」と決めた後でも、いつでも恋愛を始められるし、いつでも恋愛を中断したり、やめたりできる。

  3. 恋愛を脱構築する自由:恋愛というゲームのプレイヤーは、基本ルールと基本参加条件以外の個別の規則に限り、各人のセクシュアリティや望む恋愛の形に応じて、既存のルールにとらわれずいくらでも自由に規則や条件を変えることが出来る。ただし、それは相手プレイヤーとの同意に基づいて変更されなければならない。

 これら3つの自由と権利が認められ、不当な差別が禁止される世の中になった時、ロマンティック・ラブ・イデオロギーは完全に解体されているであろう。

《効果》

 「恋愛の自由」を達成するために自分が出来ることは何なのかを、人々は考えるようになるだろう。

主張13:プレイヤー数=ゼロでなければ、半分以下に減っても構わない

《目的》

 「恋愛の自由」の実現によって社会は、そして恋愛というゲームはどう変化するのかを記述する。

《原理》

 恋愛=ゲームになった社会においては、ロマンティック・ラブ・イデオロギー全盛期に比べて、恋愛に夢中になる人は確実に減るだろう。しかし、恋愛関係を入口に結婚や出産に踏み切るカップルまで、減るわけではない。なぜなら、社会とは常に人々に対して自己を再生産させるよう仕向け続けるプロセスのことであり、ロマンティック・ラブ・イデオロギーがもはや通用しなくなったからといって、再生産をやめるわけではないからである。つまり、恋愛=ゲームであることを許容した上で、プレイヤー数がゼロでなければいい、と考えるようになる。恋愛を「遊ぶ」プレイヤーは、半分以下に減るかもしれない。だが、それも社会にとってはどうでもいいことなのだ。
 その代わり、今進行しつつあるのは、おそらく社会の脱〈家族〉化とでも呼ぶべき現象であろう。〈パパ〉が神聖なものではなく、〈ママ〉と対等であり〈子〉とも対等であるなら、実は〈子〉がこの世に生を享け、成長していくプロセスにおいて大切な存在を〈パパ〉〈ママ〉(=実父・実母)だけに限定するようこだわる必要すら、ない。具体的には、例えば精子バンクから精子を提供してもらい子どもを授かったり(あるいは卵子バンクから卵子をもらい自分の精子を体外受精させて代理母に産んでもらったり)、実父母以外の血のつながりのない大人も家庭の中に同居したりしょっちゅう気軽に家庭にやって来たりして子育てに関わったり、シェアハウスのような様々な大人がいる環境で子育てをする親が現れたり、あるいはパートナーを複数設け「衛星関係」にある人同士で協力して子育てをしたり、そういう社会が到来しつつある。親は〈パパ〉と〈ママ〉の2人だけである必要はない。〈パパ〉と〈ママ〉の対である必要もない(〈ママ〉‐〈ママ〉のペアなど)。
 そんな中で恋愛は、おそらくシンプルで手軽な「ロールプレイングゲームの一種」になるか、あるいは、数種類の質問の手札と回答用の手札がプレイヤーに与えられ、戦略的にやり取りしながらある特定の合意を目指すというシンプルな「ボードゲームの一種」になる。いずれ、App StoreやGoogle Playで配信されるアプリの一種として、「シンプルな恋愛=ゲーム」そのものが配信される日が来る。多分、「マッチングアプリ」「出会い系」はもはやレトロゲームの類に入っていることだろう。「何で昔の人は、SNS機能程度の雑な作りのアプリで恋愛をしようとしてたんだろう?」と人々が訝しがる日も遠くない。

《効果》

 恋愛のゲーム化は社会の脱〈家族〉化を促し、より自由で不定形で流動的なつながりの中で社会は自らを再生産し続けるであろう。

主張の総合

 かつて恋愛は、結婚・出産と合わせて三位一体になることによって社会の再生産システムに埋め込まれており、それ故恋愛は誰もが一度は経験すべきもの、社会にとってなくてはならないものとして重要な意味を持っていた(ロマンティック・ラブ・イデオロギー)。
 しかし、そのイデオロギーが機能不全を起こし自壊しつつある今日では、恋愛はただのゲームであり、純粋な享楽であり、参加するもしないも自由となった。
 いずれ社会は脱〈家族〉化を経験し、恋愛を入り口としない社会の構成員の再生産方式を編み出すと同時に、「シンプルな恋愛=ゲーム」としてプレイヤー数を減らして恋愛を存続させるであろう。


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