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Gutto NEET Note 01

このnote記事は私のんXがグットニート養成講座を受講して得た学びをざっくばらんにアウトプットするだけの覚書である。

グットニート養成講座
https://goodneet.camp/

今回は、2023/07/27の高橋かずひろ君の講座を受講した感想、その前編である。

グッドニート養成講座第2回目で学んだこと

今日の講師は高橋かずひろ君だった。
モテアマス三軒茶屋というシェアハウスに自生するコミュニティを通して知り合って間もないが、彼が参加している「マジ恋」というプロジェクトを知ってからというものの、私は彼に関して興味が尽きなくなった人間の一人である。

今回の講座では、かずひろ君が考えるニートの現状や、グッドニートがコミュニティとどう付き合っていくかについて、また、いい意味でどのようにイジられ、愛されるキャラになるかについて学びながら考えを深めていった。


ポスト・ニート時代を生きる

かずひろ君の講義で印象に残ったことに、今や「ニートという概念は崩壊した」ということだ。
思えば、ニートが「NEET(Not in Education, Employment or Training)」として語られていたゼロ年代(2000年代)を通り、10年代そして今日に至るまで、「ニート」は確かに「社会問題」であり、みじめな生活を送る怠け者たちへの蔑称であり、甘えた大人子どもであるとして差別の対象ですらあり続けてきた。だが一方で、実際には出来る限りニートのままでいられる方がその人にとっては幸せであり、いわゆる週五勤務・フルタイム・正社員などの枠組みの中ではかえって生きづらさを抱えてしまう人が一定数いることも知られてきている。
そして、「生き方の多様性」というお題目のもとに「ニート」は包摂され、ついに「グットニート」という概念が新たに登場した。

バッドニートは存在する?

では、グットニートに対して、バッドニート(?)なるものは存在するのだろうか。
見方次第では、存在するとも言えるかもしれない。心身の病や障害、生活困窮や先行き不安定な社会情勢、人によっては暴力の真っ只中で、仕方なくニートという境遇に流れ着かざるを得なかった人だっている。彼ら/彼女らの中には、自分の人生をバッドな人生である、と卑下する人もいるだろう。
しかし、だからと言って短絡的に彼ら/彼女らをバッドなニートと言い切ってしまうのは流石に倫理的に見ても躊躇うべきことだ。何より、そうなってしまっては「グットニート」概念そのものがまた新たな差別を再生産していることにもなってしまう。
思うに、グットニートとは、生き方なのだ。人間が辿りうるいくつかのライフコースのバリエーションの一つでしかない。であると同時に、ニート当事者にとっては、ニートという人生をどのように肯定し、自己受容するか、という切実な課題がある。「グットニート」概念はその課題に対して考え抜いた末の結論でもあるように思う。
したがって、バッドニートなるものが仮に存在するとしたら、それはニートである自分を完全には肯定できず、また自己受容も出来ていない「状態」のことを指すと言っていい。ロールプレイングゲームで言うところのバッドステータス(「どく」、「まひ」、「やけど」、etc)のようなものと考えたらよく、その状態に陥る原因は様々なものがある。私がそのように考える理由は、バッドニートは回復可能な状態、あるいは治療可能な病であり、その意味でどんなニートにもグットニートであれる可能性は必ず開けていることを身をもって示したいという、本講座を受講するにあたっての意気込みから、と言うのもある。だが、もう一つは、2020年代に入り社会が成熟するところまで成熟し切った結果、ニートが社会問題の温床として差別されていた時代から、多くの人がグットニートという生き方を選択することによって社会のバランスがむしろ安定する時代に入ったことによるところが大きい。時代は、ポスト・ニート時代なのだ

ポスト・ニート時代のトリビアル・ワーカー

失礼を承知で言わせてもらう。
かずひろ君の仕事に私が妙に惹かれるのは、それが決して爆発的なイノベーションに繋がったりとか、社会に貢献する歯車となる運動であるとか、そういうことじゃないところにある。100年後とか、それくらい先のレベルでゆくゆくは影響を与えているかもしれない。ただ、iPhoneであるとか歯車の発明であるとか、膨大な歴史上の偉大なるイノベーションと比較すると、かずひろ君の仕事は明らかに地味で、実にtrivial(些細な、瑣末な)である。しかも、それを隠そうともしていない感じがある。なのに、見る人にインパクトを与え、強烈にそのキャラクターを印象付けずにはいられない。
そこに潜む本質はなんなのか。とても興味が尽きない。それで、私なりに分析してみたところ、おそらく「trivial」であることが何かしらのキーになっているのではないかと考えた。
一昔前に「トリビアの泉」という番組が流行ったことがあった。視聴者からひたすらトリビアルな知識を投稿してもらい、それに対してタモリ含め出演者が「へぇ〜」ボタンで反応するという、くだらなさを徹底的に追求した番組だ。
思うのだが、ああいう番組が流行った背景には、人間の知性に潜む欲望として、瑣末だったり出来が悪いものだったり軽度に悪趣味だったりするものを見ると、「バカやってんなwww」と茶化しながらも茶化すという行為でもって愛情を注がずにはいられない性分というものがある気がしてならない。分かりやすい例が「サメ映画」である。

「メガ・シャーク」「シャークネード」はじめ、アサイラムは決してアカデミー賞を受賞するような作品をかつて作ったことはないし、今後も作ることがないであろう程度には、B級で、粗製乱用で、trivialな映画コンテンツを生み出し続けている会社ではあるが、「またアホなアメリカが糞サメ映画作ってるよw」と笑って許容している日本人たちによって、続編を作り続けられる程度には経済がちゃんと回っているわけである。trivialなコンテンツにはニッチでコアな客層=変態が群がり、変態たちの群れはこれまでになかった新しい市場価値や新しい経済圏を創造する。それにしても、常識的に考えて、偉大でもなければ、社会の歯車にすらもならない、日常生活の中ではただただ余計なものでしかないtrivialな仕事のどこに、このような経済圏を生み出す程の潜勢力が眠っているのだろう。
それを解く鍵の一つが、グットニートという生き方の実践の中あると私は考えている。
ニートは基本的に既存の労働市場に乗ることはないし、既存の市場価値から外れたところに身を置くことが容易にできる。少なくとも、既存の市場価値に乗っかれなかったし、乗る気もさらさらないという態度を貫くことがやりやすい人種だと私は思っている。会社員にはなかなか難しい。だからこそ、既存の社会から外れた場所で、自分の個性を自家培養的に磨いていって、trivial的な変態性を育てていった先に、やがてその人にしか生み出せないある種独特で異様、その癖人を惹きつけずにはいられないようなコンテンツや作品、表現を発明したり開発することがことができるようになる。彼ら/彼女らの仕事は偉大な発明と呼ばれることもなく、また役に立つものとして生活に重宝されることもないが、ただ間違いなく新しい発明であり、新しい市場価値であり、小さくてニッチだけれどもこれまでにない経済圏を生み出す種になる。
ポスト・ニート時代におけるニートは、ただ社会のお荷物と目されるだけだった時代を超えて、全く新しい、けれどもtrivialでコアな市場価値を生み出すイノベーターなのだ。クセはあるから好き嫌いは分かれるものの、愛される人には愛されるし、愛してくれる人の群れが小さいながらも現金収入を産む。グッドニートとは、おそらくそうした小さなtrivial workをいくつも発明しては、面白がってくれる人たちの群れの中で惜しみなく財や才能を無駄遣いし続け、結果としてアイドルのように長く愛され続ける人たちのことを言うのだろう。

トリビアル・エコノミーの原理--蕩尽・ミニマルな生産性・孤高性

trivialな仕事が生み出すtrivialなエコノミーを回す原理として3つ考えられるものがある。

  • 蕩尽:財を惜しみなく使い果たし、才能や能力を余すところなく無駄遣いすること

  • ミニマルな生産性:生産性・有用性はあっていいが、極めて最小限にとどまるようにあえて設計すること

  • 孤高性:「こんなバカなことは自分がやらなければ多分誰もやらないだろう」と思いつつ、そのことに誇りが持てること

いちいち説明はしない。
代わりと言ってはなんだが、こう言う議論に関して深く突っ込みたい方はジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』を参照してほしい。

要点だけを述べるに留めよう。
ポスト・ニート時代におけるトリビアル・ワーカーの行動原理は、とにかく自分の持てる有形無形の資産を無駄遣いする方向で浪費しまくることにある。「もっとこうしたら社会の役に立つのに・・・」という声を一切無視するかのように、一見何の役にも立たないし何の貨幣価値にもならなさそうなものを発明し、工作し、量産し、時にはさもそれが自然であるかのように売り場の棚に陳列しさえする。それらの行為に惜しみなくエネルギーを投じる。人によってはある種の狂気さえ感じることだろう。しかし、それが「狂気」に見えるとしたら、それは既存の市場価値に染まった視点で眺めているからであって、本質的にはtrivialなのである。人はtrivialなものに触れることで、面白がってネタにしたいという快楽、およそ知性に働きかける麻薬とでも呼ぶべき陶酔感がもたらされる。それは、今日の社会において教育水準が高まり人々の知的水準が高くなればなるほど、ますます有効に働くように出来ている。
だからこそ、トリビアル・ワーカーは決して易々とは人の役に立ってはいけない。人の役に立つようなものをホイホイと発明できる人は、その時点で既存の市場価値の体系の中でうまくやっていける人であり、trivialでない労働を担える人なのである。かといって、最初からニッチな市場を狙って投資を繰り返すことも、トリビアル・ワーカーとしては実は本末転倒なのである。トリビアルな仕事を量産していくためには、一度生産性や有用性を志向するモードから自分自身を引き剥がす必要がある。既存の社会が用意するいかなる有用性や生産性にも配慮しないこと。とはいえ、どんな仕事にも有用性や生産性の問題は必ず付きまとうものだから、多少の有用性や生産性は確保しつつ、あくまで「それでなくても(金を出せば)もっと他にいいものが手に入る」程度の最小限にとどまるように設計するのだ。
そうして、既存の価値体系に組み込まれることに徹底的に無関心を貫きつつ、自分の持てる財や才能を惜しみなく無駄遣いし続ける作業は、時として孤独の只中に自身を置くことにもなる。「こんなバカなことをいつまでもやっていていいのか」と、一人部屋の中で自信を失うこともあるだろう。そんな時私は、ブッダが『スッタニパータ』というお経の中で「サイのように歩め」と修行者に励まし続けたことを思い出す。サイのように歩むための原動力は、己のやっていることにどこまで誇りを持てるかだろうと私は考える。トリビアル・ワーカーはいつだって孤独ではあるが、孤高な孤独者であってほしい。こんなバカなことをやり続けられるのは自分しかいないが、自分がやらなければ誰もやらないのだから、あえてやり続けることにこそ自分の生きた証がある。だから、やるのだ。人はそれをtrivialであると揶揄しようとも。

「不易」と「流行」のコミュニティデザイン

かずひろ君もそうだし、私にも共通しているところは、「多動的にいろんなコミュニティに入ってはみるものの、『自分の居場所はここじゃなかった』と失望したり、『なんか違うな』『つまんねーな』と思ったりして、結局追い出されるか離れるかしてきた経験」をたくさん積んでいることだと思う。コミュニティ流浪体験とでも呼ぶべきこれらの経験値は、かずひろ君の人生にどんな糧を残してきたのか。あるいは私自身の生きる糧として、何が残っただろうか。ほんの少しではあるがその点において対話ができたのは、受講して良かったことの一つである。

居心地の良さをアテにしてはいけない

コミュニティ流浪体験が私自身に残した生きる糧、それは「居心地の良さは、アテにならない」ということだと思う。
コミュニティに属したいと思う人の多くは、コミュニティに対して「居心地の良さ」を求めて入ろうとする。このコミュニティの中だったら、自分の居場所が見つかって、安心していられる感覚に包まれて精神が穏やかになれるのではないか、と。
だが、いざコミュニティの中に身を置いてみると、実は居心地の良さ、アットホームで親しみがある感じが得られるのは、何のことはない、私のことを物珍しがってくれたり面白がってくれたり重宝してくれたりする間だけであることがわかる。なぜこうも、居心地の良さというのは期間限定なのか。
私たちの基本的性格は、怠惰で、飽きっぽい。居心地が良いと感じた途端に、飽きが始まってくる。そして、飽きたと同時に、次の新しい刺激を求めて彷徨ってしまう。
コミュニケーションの輪の中に入るには、入会金だったり交際費だったりスケジュール確保だったりという形で様々なコストがかかるが、維持するにもさらにコストがかかる。それらのコストを苦もなく支払い続けられるコミュニティは、おそらく自分に合ったコミュニティなのだろう。だがおそらくかずひろ君も私も、ずっとコミュニケーションコストを支払い続けていたいと感じるほど、ガッツリ長くコミットしたいと思えるコミュニティに未だに出会えていないように感じる。いや、そうではないのかもしれない。コミュニケーションコストを支払うことの大事さは弁えつつも、特定のどこか・誰かにただずっと支払い続けているという構図が、そんなに好きではない、ということなのかもしれない。
そんなことをぐるぐる思い巡らせながら、ふと私の頭の中には「不易流行」の四字熟語が思い浮かんでいた。
不易流行。会社や学校の偉い人の口からたまーに出てくることもあるレベルの頻度で使われるフレーズなので多くの人には耳馴染みがない言葉だと思う。一応、KADOKAWAグループの理念になっていたりするくらいには、日本社会では割と経営者が好んで用いる言葉だ。
世の中には、変わらないもの(変わってはいけないもの)と、変わっていくもの(変化していくべきもの)の、二つがある。
不易流行は、意味としては実に味気ないほどシンプルであっさりしたメッセージしか含んでいない熟語なのだが、コミュニティや組織の経営者は興味深いことにそのあっさり味のスープに濃厚な旨みを感じてしまうようなのだ。「不易」に何を配置し、「流行」に何を配置するかという解釈の妙味は、基本的に組織のオーガナイザーに委ねられていることが多い。「不易」に配置されるのは会社のルールだという経営者がいれば、社風、所属する個人のマインドセットやメンタリティだと言う財界人もいるし、それらルールやメンタリティは実際には「流行」の方だ、と宣言する人もいる。そのような玉虫色の解釈を不易流行は許容する。何かを言っているようでいて、実は何も言っていないし、だからこそ人に考えを促すような磁場を発しているのである。
繰り返すようだが、私たちの性質は基本的には、怠惰で、飽きっぽいのである。その意味で、コミュニティや組織の中のどこかには変わっていくものがあってほしいと願う。だがそのくせ、大きな変化や無作為な変化の連続に対しては大きなストレスを感じてしまうようにできている。だから、軸としてぶれない何か、出来るだけ変化からは免れている確固としたものも同時に欲している。要はそのバランスなんだと思う。

組織のトンマナに染まりすぎない

不易と流行のバランスを意識すると同時に、私がコミュニティ流浪体験の中で身につけてきたこと、それは「組織のTone & Mannerに染まりすぎない」ということだ。
なぜ、染まりすぎてはいけないのか。それは、その組織にいないと生きられないところまで自分を追い詰めたくないからである。基本的に多くのコミュニティの寿命は、人間の寿命よりも短い。人間の寿命よりも長く伝統的に続いているコミュニティは、歴史を紐解いてみると多くの場合分裂と分散の歴史か、そうでなければ抑圧の歴史だったりする。限られた幸福なコミュニティだけが、不易と流行のバランスをうまく保ちながら生き延びて、自浄作用と若返り(代替わり)を繰り返すことに成功しているにすぎない。そうでない大半のコミュニティはいずれ枯れるか腐るかしてなくなる。そうなった時に、私はコミュニティと共に滅びる選択をなるべくしたくないのだ。
何がそう思わせるのだろう。実を言うと、私にとってコミュニティの中に私の居場所は必要ないのだとすら、思っている節がある。コミュニティという装置から得られる成果物を受け取っている(受け取る資格がある)コミュニティに居場所がある人が友達にいて、その友達が気まぐれに与えてくれるお裾分け程度の副産物で食いつないでいく、くらいの関わりが丁度いいとさえ思う。確かに、どうであれ何かしらの形でコミュニティにつながっていた方が私の生命は安定して持続可能になることも事実ではある。だが、ガッツリコミットしていなくても良いのだとすれば、その方が気が楽と言えば気が楽なのだ。

絶えず流れる水で居続ける

コミュニティの中にも不易と流行があるならば、私の中にも不易と流行がある。かずひろ君の中にも不易の部分があり、それ以外の部分は絶えず流行しまくっている。不易の部分を「本質」と言い換えてしまっても差し支えないのかもしれないが、本質と言い切ってしまうとその不易性が不易性でなくなる気もする。本当だったら変えたいはずだったのに、変わらないまま残ってしまっているものだってある。変えたくないと望んでいたけれども、いつの間にか時の流れの中で変わっていってしまったものだってある。惰性で続いてしまっていたので、他人に「変えた方がいいよ」と気付かされるまで変えるべきだと思わなかったことだってあるし、必死に変わろうと努力してきたことが他人をがっかりさせることさえある。「不易」の内容は決してプラスの価値を持つものだけが残るわけではない。「流行」もまた然り。
そうであるならば、いっそのこと全てを「流行」の中に委ねてみてはどうだろうか。
「流れる水は腐らない」という。組織運営で言えば、絶えずルールや人材や営業先に流動性を確保し続けられる方が、強い組織であり続けられるという論理になるが、私の場合は別種の解釈をする。自分自身が流れる水になるのだ。出来る限り、どこにも属さない。組織から組織、コミュニティからコミュニティへと流れるように移動し続ける。もちろん、都度コミュニケーションコストを払ったりコミュニティに貢献したりすることはある。ただ、自分が飽きっぽくて移り気であることは肯定しているので、気が向いた時にしかコミュニティの活動には参加しないようにする。ただ、ハマる時はサルのようにハマるので、コミットするとなったらリソースは惜しみなく与えまくる。
ただ、ハマり続けた結果コミュニティ内で居てもらわないと成り立たないレベルでガッツリ存在感を発揮することが決してないようにも心がける。どこかで「飽きるポイント」をあえて見つけておくのだ。最近のライフハックで気に入っているものに、「あらかじめ終わりを決めておく」「仕事を発明して、実行まではやるが、完成までは手をつけない」というものがある。終わりを決めておけば、どんなにハマっていたとしても、終わったと同時に抜け出すことができる。完成だけは他力本願にしておくと、他人が自分のプロジェクトに対して関わりしろを持てるようになるし、何より「終わり=完成」というプレッシャーから自分を解放することができる。
コミュニティがどのように腐らずに発酵し続けられるかは、私の生涯かけての研究テーマでもあるが、一番大事なことは、自分で自分を腐らせないことだ。自分が腐らなければ、例えどんなに人との交わりの中で行き詰まったとしても、逃げ道だけは確保し続けられる。
(後編↓へ続く)

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