殴り書きvol.0?
人間って最後は何処まで行っても、孤独だから。
私が中学生の頃、家出したり、虐待されてたり、学校で村八分にされたり。そういう事実をみんな「私が強くてすごくて賢い所以の大したことないこと、想像もできないししたくないし、苦労話っぽいからヤバいな大変そうだな、とは思うけどそれ以上でも以下でもないただの他人の話」としか捉えないくせに、とずっと思っているし、今日も思わされた。
そういう今の“私”を表層的にだけ、インスタとSNSとサービスと経済的な生活水準のキラキラした部分だけを切り取って、勝ち組で強者女性で高学歴の特権者で、としか捉えられない人たちが、知らないようなことが沢山ある。別にフラッシュバックするからコンテンツにするとき以外わざわざ喋りたくもないけど。
泣きながら、髪を振り乱して、500円玉だけ握りしめて知り合いの電話番号リストのメモ書きとロザリオだけを持ってスラム街みたいな日本の端っこできっしょいおっさんに追いかけ回されながら帰る家がなくて大阪城公園の端っこで朝まで泣いてたこととか、学校で正しいこと言っても弾劾されて不登校だったこととか、そういう私が、今「お金もあってそれなりに可愛くて仕事ができてそれなりの大学にいっている」という事実がなかったら、私に見向きもしなかったくせにと沢山の人間に対して思う。
知ろうとも知りもせず、社会に不適合でブスで陰キャの面倒な女として加害対象にして、なぶって、虐めて、加虐的であることを正当化して、性的に消費してただろうにって。
私が一番泣きたい時に会いにきてくれる人も、会いたいと思う人も、会える人も、何か損をしてでも私の心を救ってあげようって思う人も、損得を全部イーブンに平らにならしてみた時に私がこいつの前だったら泣いてもいいやって思える人も、たぶん、ほぼ、いない。いなくていいけど、いないことは辛いけど、辛いことを辛いままでおいておいても意味がないから、だから、起業したし、人より常に働いているし、努力している。自分で自分の居場所を作る努力を人より早く始めて、形にした。自分の心理的安全性を捨ててでも他者のために生きることを腹に決めた、それを理解してもらえないことばかりなことも、加害されて後ろ指をさされて、うまく利用されるリスクがあることを100も承知で、女だから、女のくせにという批判を今ですらいう人がバカみたいにいることを100も承知で、背水の陣でいこうと自分で決めた。
努力強制ハラスメントを誰かにすることはやめたけど、それでも私は努力している。とても。自分という存在が社会でどういう立ち位置にいて、どう消費されて、みんなが私をみんなの自己承認欲求のために、みんなの足りない知性を埋めるために、みんなの知的っぽい人生を送りたいという顕示欲のために、どう利用されているか、されるだろうかを知っていて、それでも彼らに対して斜に構えて、批判・否定する前に愛する努力をずっと続けている。一人で死ぬまで努力をやめない美しい女でいる覚悟をやめないことを選んだ、選んできた、ずっと。結構な頻度で間違った選択と行動を大量にして、可笑しなことに巻き込まれて、巻き込まれにいって、傷ついても、傷を自分でリペアして、無理やりに絆創膏を貼って、またはたらく。働いて、お客様に結果とサービスの質で満足してもらって、その先にしか見えない幸福と私の死ぬまでの孤独を埋める愛情があることを知ってしまったから、知り続けるために、またはたらく。その過程で批判的で挑戦的で知的でいることを蔑まれても、裏切られても、傷つけられても、消費されても、良い仕事で返す、良い女でいることで返す、全部私が私でいることで、私という名前の固有名詞がいつまでも美しい四字熟語であることのためだけに。いつか、私を社会のお前らが自分のために消費してきたことに1mmでも反省して、慈しんで、愛してくれることを期待はしていないけど、諦めずに、求めずに、生き続ける。それがどれだけの孤独とこれまでの傷の痕と共に成り立っている覚悟なのかを誰にもわかってもらえなくても、共感されなくても、それを批判しないことを選ぶ。
これが、孤独ってことです。知ってた?知るわけもないか。
知ってたら困る。ここまでくるのにどれだけ泣いたと思ってんだよ。
男たちは私を通じて、男性として社会から承認されたいやつばっかだ。
エロくて可愛くて自分より頭の良い女とヤッたぐらいで己の市場価値が上がると、本当に勘違いをしていて、そういう女性の権利の形骸化に気づきもしないし、気づくつもりもない。私たちの表沙汰にならない恐怖も配慮も愛情も、全部うまいことぐちゃぐちゃに消費して、性的なサービスに変換して、自分の尊大な自信の製造元に付け加えて、正当化することを厭わない。それを愛や恋だとすら思っている。呆れた。呆れすら生まれない、絶望と相反する自傷欲求だけ。
リスカは死んでもやらないけど、傷つきたい時はある。バカみたいな男と捨ててきた元彼たちに、傷つけられて消費されて加害しあってそれをエモいみたいに一般化して、そういう過程を思い出して、想像して、毎回私は泣きたくなるけれど、泣かないし、男とのつまらない談合を通じて自分を安売りして切り分けて消費されに自分をどうぞと献上している事実を客観視して、自分を傷つけている、傷つけたくなる。みんな、私たちのことを切り刻んで
傷つけてるくせに急に友好的なフリをしたがるのが気持ち悪いから、だったらこちらから自分の体を差し出した方が幾分かマシに思える。買われたのではなく、買わせてやっているし、ヤらせたのではなく、ヤらせてあげている
、とメタ的にギリギリの理性で認知できた方が、人生がマシに思える、思いたい、本当にそう思いたいんだよ。
それでも私は、誰に対しても諦めていない。色々なゴタゴタで「もう私は人を信用も信頼もしなくなった」といっているし、実際していないし、していないであろうと思いたいけれど、人間に対してまだ諦めきれていない。
まだ私ができることを模索しているし、私が10年傷つき続けてもその後にその傷をやっと視認することができるようになる若人を育てることを諦めていない。それが私のプライドで、捨てられない本当であればおそらく無駄なもので、弱さで、強さで、美しさ’で。そういうふうに正当化したい、するしかない。
私はすっごく孤独だけれど、フェミニズムはいつもどこにでも私の中にいるから。フェミニズムだけが私のイエスキリストで、指針で、間違いすらも包含して元の道に戻って、この最低でゴミみたいな世界でそれでもまだ女として生きていくことに一縷の希望と情熱を思い出させてくれるから。
死ぬまでフェミニストでいたい、それをやめたくないし、辞めるつもりもないし、妥協しない。私の会社の中身の人間が変わっても、会社の理念は変わらないし、理念に合う人を補充して育てて生み出して私がそういうあるべき人間であり続けるのと同じように、フェミニズムに見合わない私だとしても、追いつけるように少しずつ諦めを慈愛に変えていく。
私なら、変えられる。って知ってる。
ゴミ文章すぎて読みづらい理解できないのオンパレードだから早く書き直して修正して加筆して本垢にあげるぞーーー(まずは残っている仕事やってからだけど)
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