アジサイは五月病を表す
五月病の意味をよく調べないまま
また1年が過ぎてしまった。
こうやって文章を書いている間に
PCの検索窓に
「五月病 なぜなる」とか「五月病 対策」
とかいれてしまえばいいのだと頭ではわかっているけれど
そんなことがササっとできる人間ならば
そもそも五月病なんかにはならないのではないかと思う。
というか、今年は五月病にならなかったなーと
夕方散歩をしながら
近所の花屋のアジサイがとってもきれいにみえることに感激して
思ったばっかりだったのだけれど。
学生時代のわたしにとって五月は
特にゴールデンウィークが明けてしばらくたつこの頃は
気が滅入ることが多い時期だった。
だからか、この季節の印象はいつも灰色
もしくは灰色がかった水色のイメージだった。
その配色はまさに
雨に濡れるアジサイの色に近かったように思う。
もっとも、わたしの住んでいたところは大変田舎だったから
花屋なんて洒落たものは近所になく、
通っていた学校近くにある知り合いの家の
門のそばに生えていたアジサイが心象風景だ。
売り物とは違ってどこか粗野なあの花。
花びらをよくみれば、茶色いシミが広がるように傷み始めていたかんじがなんだか、言葉や態度、あるいはなんとなく漂う雰囲気に汚されていく
人の心のように思えたのかもしれない。
あるいは単純に、雨の季節を象徴する花だったからかもしれない。
あの頃のわたしにとって悩みとは
雨水のように湿っていて濁っていて
胸にたまって吐き気をもようさせるものだった。
それがいつからだろう。
悩みというものがヒリヒリするものになったのは。
迫りくる納期、上司からのプレッシャー
同期との競争、顧客からのクレーム
そういったもので口内が乾き、頭の中のアイデアが渇き
どんどんとドライな人間になっていく。
あの頃は、良くも悪くも降り注いでいたものが
今は、どんどん蒸発していく。
変わらないのは、どちらも自分で思うように止められないこと。
そして悲しいかな、五月になると一層ひどくそう感じるということだ。
そういえば、あの家のアジサイはもう伐採してしまったのだよなと、
ふと思い出す。
家主が亡くなり、残された家族も年配だったため
庭の管理ができなくなる前に処理してしまったのだそうだ。
アジサイだけでなくたくさんの植物にあふれ
熱帯雨林のようにみえていたあの庭が更地になってしまった時、
心にまで砂風が吹いたような気がしたけれど、
あれは、何かを割り切れる大人になるって
水気を失うことなんだと、教えてくれていたのだろうか。
カラッと晴れた日にそぐわず、五月病を患ってしまった。
そう思っていたけれど、それはとても自然なことだったのかもしれない。
などと、いいかんじに文章を終わろうとしているけれど
結局のところ五月病って何なのだろうか。
思い込みなのか?ホルモンの関係で生じるものなのか?
そういうことをササっと調べて答えられる大人には
少なくともまだ、なれていない。