「悲哀の月」 第44話
雨宮の不安は当たっていた。
里奈の症状は悪化していた。
咳は絶えず出、体には重い倦怠感がある。頭も胸も痛く、息苦しさを感じる時もある。
(まずいわね。これは。状況が悪化しているわ)
里奈はそう思ったものの、玄関へ向かった。起き上がるだけでも辛かったが、壁を伝いながらふらつきながら歩いて行くと、ドアを開け、ノブに掛かっている袋を取った。
(ありがたいわね。健介は。毎日、こうして届けてくれるんだから)
袋からパンを取り出すと、里奈は涙を浮かべた。本来であれば、今頃住む部屋を探し一緒に住んでいたかもしれない。自分がこんなことになってしまったことでそれも出来なくなってしまったのだ。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
里奈は雨宮への感謝を持ちながらパンを食べた。全てを食べることは出来なかったが、食べられるだけ食べた。
その後は、布団で横になって目を閉じる。
だが、眠ることは出来ない。咳き込むことで苦しくなり、目覚めてしまうのだ。昨夜から、この繰り返しだった。
この夜もそれは同じだった。
目を開けるといつの間にか空は明るくなっていたが、症状は全く変わっていない。
(これはまずいわね。病院に行こう)
さすがに危機感を覚え、里奈は決意した。
(とりあえずタクシーを呼ぼう。他に行く方法はないからね)
さすがに公共機関は使えないため、里奈はタクシーに頼ることにした。携帯を手にすると、ネットでタクシーを依頼した。届いたメールによると、三十分ほどで来るという。
里奈はその間に準備に取り掛かった。本来であれば最低限の外出着に着替えたいところだったが、そんな余裕はなかった。スエットに上着を羽織るだけで精一杯だった。バッグを手にすることも億劫だったため、財布と携帯だけをポケットに入れた。それだけでも息が切れている。
そうして待っていると、やがて携帯が鳴った。知らない番号だったが、里奈は通話ボタンを押した。
「タクシーの者ですが、今マンションの前に着きました」
電話の向こうからは、中年男性の声が聞こえてきた。
「わかりました」
今、行きますと続けようとしたが、咳で言葉にすることは出来なかった。おまけに、久し振りに喋ったことで咳が止まらなくなってしまった。
「ちょっと、大丈夫かい」
運転手は電話の向こうで心配している。
「はい」
答えこそ返したものの、咳は止まらない。
「まさか、あなたコロナじゃないよね」
その様子に運転手は勘繰ってきた。里奈からすれば否定したいところだったが、咳が止まらないため、そうすることは出来ない。
「申し訳ない。他のタクシーを探してくれるかな。コロナは乗せられないよ」
運転手は確信したようだ。電話は切れてしまった。
「待って」
里奈は必死に呼び掛けたが、やはり咳で言葉にはならなかった。
(どうして、こうなるのよ)
彼女はあきらめ、携帯を手から離したが、悔しさから涙がこぼれる。
(健介。助けてよ)
目には昨夜食べたパンが入り込んだため、頭には夫の顔がよぎった。
だが、連絡を取ることは出来ない。
もし連絡を入れれば必ず飛んでくるだろう。部屋にも入ってくるはずだ。そこで感染させてしまったら大変なことになってしまう。
雨宮にはまだ未来があるのだ。自分のウィルスを感染させて、その未来を奪うわけにはいかない。里奈はその考えの元、雨宮に助けを求めることはしなかった。
(こうなったらもうしょうがないわね。最後の手段に出るしかないわね)
そこで里奈は再び携帯に目を向けた。そして、生まれて初めて救急要請をした。
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