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「カエシテ」 第60話

   60

「何でだよ。何で、この画像が送られてくるんだよ」
 画像の正体を知ると陣内は慌ててファイルを閉じた。
 だが、それは遅かったようだ。
「カエシテ」
 どこからか、声が聞こえてきた。物悲しい女の声だ。
「何だよ」
 陣内は慌てて室内を見回した。
 だが、薄暗いオフィスに人の姿はない。
(気のせいか。とてもそうは思えないほど、ハッキリと聞こえたけどな)
 首をひねったものの、誰もいないのであれば、自分の思い違いなのだろう。しかし、普段と違う空気はひしひしと伝わってくる。
(今日のところは、ここで切り上げるかな。気味が悪いから)
 熟考した結果、この日は退社することにした。本来であれば仕事が山積しているため、徹夜しなければいけないところだが、背に腹は変えられない。命の方が大事だ。
 パソコンの電源を落としに掛かる。
 が、モニタに目を向けると凍り付いた。
 何かが飛び出ている事に気付いたからだ。
「何だよ。これは」
 直視してみると、正体は判明した。
 指だ。
 指は、モゾモゾと動きながらモニタから出て来ようとしている。
「おい、嘘だろ」
 思わず陣内は立ち上がった。椅子が足に絡みつき、バランスを崩したが、目はモニタから離れない。
 そのモニタからは一本の手が飛び出てきた。肘まである手は、指を巧みに動かしながら迫ってくる。
「うわぁ、来るな。向こうに行け。気持ち悪い」
 陣内は椅子を盾にして身を伏せたが、意味はなかった。手は簡単に椅子を飛び越え、彼の体に飛びついてきた。おまけに、その一本を皮切りに、モニタからは次々と手が飛び出て来る。手は、陣内の体に飛びつくものもあれば、オフィスを駆け回るものもある。中には陣内の体を飛び越え、窓に激突しひっくり返ってもがく間抜けなものもあった。
「止めろ。離れろ」
 だが、陣内はそんな間抜けな手には目も向けず、自分の体にまとわりつく手を必死に払い落とそうとしている。
 しかし、手は次々としがみついてくることで、次第に体の自由は奪われていく。
 二分もすると、体は動かせなくなってしまった。蜘蛛の巣に掛かった昆虫のようだ。
(どうすればいいんだよ。これは)
 不安を覚えた陣内の目はオフィスに向く。
 すると、オフィスは手で埋まっていた。床やデスクや椅子の上には、餌を見つけた蟻のように群がり蠢いている。更に、壁や窓や天井には蛾のように無数の手がへばりついている。その状況下でもなお、モニタからは多くの手が出続けている。まるで、ダムの放水のようだ。
「何だよ。これは」
 陣内は、その光景を呆然と見ることしか出来なかった。既に彼の体はモニタから出て来た手で完全に覆われている。素肌はおろか、服すら見えない。おまけに、全身には手が這っていく感触が伝わり、耳にはオフィスをモゾモゾと動き回る手の音が聞こえてくる。
(これは本当にヤバいな。このままじゃ、あいつらと同じ運命になってしまうよ)
 体は自由を完全に奪われた状態だったが、陣内は必死に生き延びる道を模索していく。
「カエシテ」
 そうしていると、どこからか再び声が聞こえてきた。
(どこだ)
 陣内は声の出所を探した。
 と、すぐに判明した。
 モニタだ。
 モニタには、女の顔が表示されている。女の顔は青白い肌をしているものの、黄色く濁色した目には深い憎しみを宿っている。
「ついに登場かよ」
 眼光の鋭さに寒気を覚えたものの、陣内の口からは言葉が漏れる。
 と、その声は女にも届いたようだ。
 モニタから飛び出てくると、陣内の顔の前でピタリと止まった。どういう原理になっているのか、その場で浮遊している。
「カエシテ」
 おまけに、口からは物悲しい声が出て来る。刺すような視線は片時も逸らすことはない。
「何だよ」
 俺が何をしたと言うんだよ。と続けようとしたが、開けた口の中に手が侵入しようとしてくる。舌には、モゾモゾと蠢く指の感触が伝わってくる。陣内は慌てて口から吐き出した。
 だが、それは気に触れたらしい。全身に絡みつく手は陣内の体を力任せに椅子へと座らせた。
「何だよ。何をするつもりだよ」
 陣内は叫んだが、椅子はオフィスの中を走り出す。まるで、サーキット場を走るカートのようだ。巧みに障害物を避けていく。床にひしめいていた手は、疾走する椅子から逃げるように素早い身のこなしでデスクや椅子に飛び移っていく。そして、まるで観客のように走っていく椅子を見守っている。興奮しているのか、飛び跳ねている手もある。
「止めろ。今すぐ止めろ」
 その椅子に座ったまま陣内は叫んだ。手により体は固定されているが、表情は引きつっている。部下を叱責していた姿は、そこにはない。
「カエシテ。ソノガゾウヲ。ワタシノカレヲ。ワタシノジンセイヲ。スベテヲカエシテ」
 そこに怒りを増幅させたのか、女の口数が増えた。疾走する椅子に片時も離れず併走している。
「何だよ。それは。どういうことだよ。俺は何も知らないよ」
 陣内は否定したが、走る椅子の速度が上がっていく。椅子は縦横無尽にオフィスを走り回っているが、座らされている陣内は生きた心地がしなかった。すでに、速度は五十キロを超えている。この速度でデスクに叩きつけられれば、大怪我は免れない。陣内は椅子から振り落とされないようにするだけで精一杯だった。
「カエシテヨ。ワタシノスベテヲカエシテヨ」
 あくまでしらを切り通す陣内に対し、女の怒りはついに爆発したようだ。怒鳴り散らした。
 それと共に、室内で新たな動きがあった。
 突き当たりの窓が大きく開いたのだ。外からは冷たい夜風が入り込み、街の喧騒も聞こえてくる。相変わらず新宿の夜は人で賑わっているようだ。人々の嬌声が車の走行音に混じり聞こえてくる。
 しかし、今の陣内はそこを気に掛けている場合ではない。
「おい、止めろ。何をするつもりだ」
 夜風に身を震わせながら叫んだ。
 その直後だった。
 突如、椅子は方向を変え、真っ直ぐ、大きく開いた窓へと向かい始めた。
「止めろ。止めてくれ」
 最悪の事態が頭をよぎり陣内は叫んだ。
 その中、椅子は更に加速して窓へ突っ込んでいく。
 そして、手前で急停止した。
 陣内の体は、その動きに付いていけなかった。
 動力に従い、窓の外へと放り出された。
 数秒後。
 夜の新宿の路地裏に鈍い音が響き渡った。


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