なぜ一人で楽しむではなく、みんなと共有したいのか?
個人的には基本一人も大好きなので、みんなと楽しむことが善。とは思ってないのですが、(もちろんみんなと共有した方が楽しい部分もあるのもわかる)それ以上に、応援してくれる人たちが少ないと結局、経済的意外なことも含めていろいろな市場がシュリンクして、推しがなくなっていくことへの危機感の方が強いから共有しているという方が近い。つまり私が仕事でまどろっこしく、自分でやるのではなくやれる人を増やすことを仕事にしているのもそういう理由だと思う。
ここでいう推しはもちろん一般的な推しコンテンツもそうだけど、自分が目指したい働き方、憧れる生き方、共感する価値観・概念とかそういったものも含まれると思う。人生におけるなにかの理想を自分が勝手に反映しているものが推しなのではと思うので。
しかし、自分の中にわざわざ共有してまで広げたい・残したいという思いが無ければ、共有するという行為は起こらないと思う。共有したり伝えることて基本はめんどくさくて大変で時間がかかることなので。あと自分の思いを伝えることはわりと自分の身を削ることでもある。(個人差はあると思うけど)
私もいろいろ好きなものはあるけれど、「共有したいほど」のものってそんなにない。さらにそこに自分の思いものせて、なんなら相手の文脈に合わせて語れるかというと、わりと時間を割いて熱量をかけていないと難しいと思う。
一方で、共有することのハードルは日々下がっているし、それによって新しいつながりもたくさん生まれていると思う。それは同時に提供する側にとっては常に競争に晒されているし、差別化はどんどん難しくなる。
共有するときは、発信する側ではなく『相手がどう受け取ったのか』に影響される。すると共有する人の感情が、わりとダイレクトにその先にいる人に伝わるのだとも実感した。特別な訓練を受けているわけでもない私は、自分の感情をそんなに上手に隠せないし、そもそもなにげなく共有するときは隠そうと思っていない。悪意も善意も楽しさも苦しさも伝わってしまう。だから共有するって本当に難しいことだな。一方で楽しさもつたわるから楽しいことを伝えられる力も大きくなっているし、みんながそれぞれ楽しめる場面が多くなればいいなと思う。
この前講座のファシリテーションしていて、ただ自分が心からめちゃくちゃ楽しかっただけなのだけど、最後のチェックアウトで「講義の内容も考えるところはあったが、自分自身が楽しくやるというのがこういうことなんだなってそれが一番印象に残った」と言われた。もちろん仕事である一定のクオリティを担保することは大事なのだけど、やっぱり伝わるものは伝わるのか、と思った次第。(そしてわざわざ講座の中では(ファシリテートはもちろんするけれど)ひたすら楽しそうにしていていいよと言われたのも大きかった。ありがたや。)