10周年は節目ではなく、これからも変わらず続いていく日常の一部
3月9日(火)発売のNewsweek3月16日号が、嵐の櫻井翔さんを表紙に3.11を特集している。今年は東日本大震災から10年だ。
「ずるさ」という、あまり櫻井さんとは結びつかない言葉が見出しになっているけれど、それは「テレビに出る人間だからこそ引き出せるものがある(本人曰く『下駄』)を使ってインタビューし、引き出しているという話の文脈での「ずるさ」だったが、それを自覚して最大限活用しているという意味では、とても櫻井さんらしい。本文には無意識とあるが、「無自覚」ではないところが、すごいところだと思う。(もちろん無自覚ならこんなことは言えない。)
でも個人的に一番心打たれたのは、震災から10周年に際して向けられたこの言葉だった。
こんなことを言ったら元も子もないのだろうが、やっぱり、節目も区切りも、きっと当事者にとってはない。
9年目や11年目と何ら変わらない10年目だとは思う。僕らの役割としては、変わらず来年も再来年も、伝え続けていくということだけなのかなと思っている。
なんなら外部が祝うためだけの祝祭にされてしまいそうな「10周年」という区切りに対して、「やっぱり」という言葉をつけて、自分の中では当然そうな顔をして(いるであろう)語る櫻井さんの姿はどこまでも真摯だ。
外野から求められる「10周年で一区切り」という期待ではなく、あくまでそこにいる当事者に向き合っている。そして、逆に10周年で一区切りという期待をしている人たちに対して、当事者の想いを伝えることに徹している。
いくらでも主観を差し挟める立場なのに。
しかも、「当事者の言葉を伝える」ことに対して、あまりにも自分自身の価値を的確に把握していて、恐れ入る。
嵐の「Attack it!!」という曲に、「外野の言葉はシカトする」という歌詞があるんですが、とにかく櫻井さんは当事者の言葉を伝えることを大切にしている印象がある。それは嵐に対しても、今回のような取材の現場でも、本人に対してもそうなのかもしれない。
等しく10年で区切りが訪れるわけではない。もちろん結果的に10年が区切りになることもあるだろうし、意図的に10年で区切るという人もいるかもしれないけれど、多くの人にとっては、毎日続いていく中の一日でしかない。
あんなに大々的に、あらゆるメディアを挙げて10周年も20周年も祝われていたグループの一員の発言とは思えないけれど、どれだけ当事者に思いを馳せていればこんなことを思うに至れるのか。そうした日々の積み重ねがあったからこその嵐の活動だったんだろうし、その日々の積み重ねは休止していようと、再開しようと、ずっと続いていくものなんだなあ。と。
なにより、当事者にこんなに寄り添える櫻井さんに感動した気持ちを書き残しておきたかった。
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