「エモい」という言葉を分解する


 「エモい」という言葉を、本当によく見聞きするようになった。SNSではあらゆるコンテンツの感想に多用されているし、リアルの会話でも結構耳にする。なのでもはや「今さら『エモい』に着目するの?」という感じだが、逆に「エモい」というワードが流行に疎い僕(紅白で初めて米津玄師の「Lemon」を聴いて、「これは売れるな」と思った)にも届いているということは、それが末端まで浸透したということ。つまり流行語やスラングとしては旬を過ぎていても、ちゃんとした“言葉”として捉えるのなら、かなり新鮮な食材なのではと思う。なんなら、「エモい」が無意識に使われるような時代になる前に、意識的に「エモい」について考える、ちょうどよい時期なんじゃないだろうか。ということでタイトル通り「エモい」という言葉について、細かく考えてみることにする。


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 多くの人がご存知だろうが、「エモい」の「エモ」はemotionalの「エモ」で、「感情が揺さぶられたとき」や「言葉に出来ないような気持ちになったとき」の形容として用いられる言葉だ(あ、ここまでのソースはInternetだし、こっから先もInternetです。Internet最高)。2016年の「今年の新語」の2位にランクインしたことから、その前後あたりで使用者が増えたのだろう。ただ、もっと前から「エモい」は音楽用語として使われていたらしい。感情的なメロディー・歌詞が特徴の「エモ」というジャンルのロックがあり、その「エモ」の要素が感じられる音楽に対し「エモい」と形容していたのが、転じて感情を揺さぶるあらゆるモノ・コトに使われるようになったんだとか。「エモ」の代表的なバンドであるMy Chemical RomanceやFall Out Boyの曲を聴いてみると、「あっ、こりゃ『エモい』」ってなる。歌詞が聴き取れねえのにそう思うんだから、「エモい」の原典のパワー恐るべし、という感じだ。


 さて、「エモい」という言葉が発せられるシチュエーションである「感情を揺さぶられたとき」についてだが、やはりあまりにも広義すぎる。感情なんて無限に種類があんぞ。でも「エモい」と感じるときの感情の種類やその方向は、本当はもうちょっとミクロに場合分けできるはずだ。だって感情が揺さぶられるといっても、上司にしょうもないことで怒られてイラつくことを「エモい」とは言わんはずだし、子供が生まれた母親が「男の子でした! めっちゃエモいです!」とブログに綴ることはないはずだから。たぶん。じゃあいったいどういう気持ちのときに「エモい」と感じるのか。個人的に「エモい」と感じたモノ・コトに共通する特徴をまとめてみると、「剥き出しだけど美しく」「でもその美しさと自分には絶妙な距離があり」「ゆえに感傷も含んでいる」みたいな感じになる。長い。ややこしい。順を追ってなるたけ分かりやすく説明したい。

 「剥き出しだけど美しい」というのは、美しいけどそれは飾り付けられた美しさではなく、ナチュラルな美しさだよってことだ。青空や海など、自然の美しさも添え物としてはあるが、メインディッシュは人間の感情。僕は「エモい」と言われるとなんとなく「泣きながら叫んでいる少年少女」の絵面が思い浮かぶ。そんな感じで、人が嘘偽りのない剥き出しの感情を吐き出して、それに美しさを覚えるとき、「エモい」の発生条件の1つが満たされる。

 次に「美しいものと美しさを感じる感性には絶妙な距離がある」の「絶妙な距離」というのは、理論上可能だけど実現は不可能、といった距離感だ。要するにその美しいものが自分にとってありえるけどありえない、みたいな位置にあるということ(要せてないな)。具体的に言えば剥き出しの感情なんてまさにそうで、いやまあ偽りのない気持ちが綺麗だったら素敵だし、そういう人もいるんだろうけど、たいていはそうじゃないじゃないですか。受容はできるけど、だからこそ距離感を覚えちゃう、そんな感じの美しさが「エモい」の美しさだと思っている。「クラスのマドンナが実は俺のこと好き」なんてのは100%妄想で、それに比べりゃ「クラスの目立たないけど本当は可愛い子が実は俺のこと好き」ってな方がONE CHANCEあるように見えるけど、まあ実際それも普通に有り得んよね、的な。そんな距離感。「エモい」の美しさは、クラスの地味だけど実は可愛い子なんですよ。これは、下手な例えを使うとより話が分かりにくくなるという教訓にしてください。

 気を取り直して最後の、「ゆえに感傷を含んでいる」という部分。これが「エモい」のキモだと思う。前述したような一握のリアリティを含む美しさに触れたとき、人は「でも自分の現実はそうじゃねえんだよなあ」と感じ、美しさは自分自身の中で切なさに裏返ってしまう青春物のアニメを観て死にたくなる、あの感じだ。そんなポジティブとネガティブの反転、正負の間で揺れ動く感情こそが、すなわち「エモい」なんじゃあなかろうか、と僕は思っている。「エモい」モノ・コトはプラスの電力を持っている気がする。センチメンタルにステータスを全振りしているものより、キャッチーでメロディアスだけどなぜか切ない、みたいな作品の方がより「エモさ」を感じないだろうか。前者は作品が切ないので当然自分も切なくなるが、後者は作品は前向きなのに自分は切なさを感じてしまって、その反転に「エモさ」が宿るのではと思っている。また前者の切なさは与えられた外からのものだが、後者の切なさは作品を解釈する過程で自分の内部から生まれたものなので、後者の方が当然より自分の感情にクリティカルになるはず。要するに悲劇のヒロインがあからさまに悲しんでいるよりも、無理して気丈に振舞っている方がこちらの切なさを駆り立てて、「エモく」感じるのだ。……これは結構うまい例えじゃない? どお?

 また、「エモい」事象と「エモい」と感じる人の間には距離があると言ったけど、実際に「エモい」体験をしている人も存在する(僕はないけど)。夏に友達と星空を観に行ったり(僕はないけど)、恋人と海を眺めたり(僕はないけど)。僕はないけど、そういう「エモい」出来事の当事者になった人の距離感はどうなんだというのは、そういうときに感じる「エモさ」もまた「この楽しい時間もいつか終わっちゃうんだろうなあ」や、「10年後にこのときのこと思い出すんだろうなあ」など、発信源がその事象から(時間的に)離れたところにあるんじゃないかってことでどうか納得していただきたい。総じて「エモい」は、「若さ」に強い結び付きがある気がするね。言葉の生まれが若者からってのもそうだけど、若さゆえに感情をぶつけあったり、時が経って若い頃を振り返り切なさを感じたりするのは、まさに「エモい」。関連して「青さ」とも相性がよさそう。「エモい」は暖色より寒色、赤より青。青空や星空、草原に海。それはきっと「エモい」が生み出す感動が永遠に寄り添ってくれるあたたかみのあるものというより、いつか消えゆく予感を孕んだ儚いものだからだ、きっと。



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 以上、40回以上に渡りエモエモ言ってきたわけだけど、僕自身は実はなるべく「エモい」という言葉を使いたくないなと思っている。その理由に、「エモい」という言葉を使うのは感情の言語化をサボることで、そうしてるといざというときに自分の気持ちをうまく言葉に出来なくなりそうで怖い、ってのがありまして。「エモい」という言葉を使うシチュエーションのひとつに「言葉にならないような気持ちになったとき」というのがあったが、よく考えればそのときに「エモい」って口にするのはなんか矛盾してる。さっき「エモい」の切なさは自分自身から湧いてきたものとか言ったように、結局「エモい」という感情は人それぞれ違う。でも多くの人が「エモい」という感情を定義し、その気持ちになったときに「エモい」と言うんじゃなく、よく分からんけどいい気持ちになったとき、場当たり的にその感情に「エモい」って名付けている感じだ。そう考えると今まさに、人間の“感情”が「エモい」という“言葉”に支配されてゆく過程を目の当たりにしている気がして、言葉の持つ力の大きさと恐ろしさにひえってなる。自分の言葉が本当に自分の感情から出てきた言葉なのか分からなくならないよう、しっかり手綱を握っておきたくなる。

 でも僕は別に、「『エモい』を使っている奴は間違っている」なんて主張をしたいわけじゃない。そもそもすでに日本には「良い」「すごい」「面白い」のように、感情の言語化をサボっている言葉はいっぱいあって、それを使わずに生きていくのはもはや不可能だ。「エモい」という言葉が定着しても、それは既に大量にある人間の感情を支配する言葉が1個増えるだけに過ぎない。だから僕がなるべく「エモい」を使わないようにしているのは、言ってしまえば無駄な抵抗であり、自己満足であり、趣味みたいなものだ。僕がもっとうまく言葉を扱えるようになりたいからそう意識しているだけで、そもそも言語化することが正しいことかも分からない。ただ、何か感動した作品に対し自分なりに言葉を尽くすことは、その作品に対して敬意を示す手段の1つになりうるんじゃないかとは考えているので、悪いことばかりではないとは思うけど。




 そんでもってこれは蛇足なんだが、やっぱり今も告白の文句で一番定番なのは「好きです」の一言、付け加えるとしても「付き合ってください」くらいなんですかね。恋愛経験がしゃぶしゃぶ用豚肉が如きうすっぺらさの僕に、告白の相場はよく分からないですけど。一般的にどれだけ語れるか、言葉を尽くせるかってのは好きの度合いを示すバロメーターになるはずなのに、人生を左右するかもしれない告白の場面で「好きです」の一言だけしか言わないのは、もうちょっと頑張ってもいいんじゃね、と思ったりする。面接だったら「どこが好きなんですか? なぜ好きなんですか?」って絶対ネチネチ聞かれるよ。でも、だからといって、


「好きです。付き合ってください。あなたのどこが好きなのか、なぜ好きなのか、大きく3つに分けてこれから説明しますね。まず、1つ目は、顔。僕結構きつめの顔の人が好きなんですよ。女優でいうと北川景子とか。正直言って僕、そういう顔の人が屈服したときの顔を見るときが最高に興奮するんです。この前妄想したシチュエーションでいうと――」


みたいに長々宣いだしたら、良くて告白失敗、悪くてその相手の周囲にも噂が広まって、女友達は全員ドン引き、野郎も全然絡みがないような奴からそのネタで雑に弄られ、最悪告白全文が書かれたメモ帳のスクショがツイートされて全国に晒されるであろうことは、この僕でさえ分かる。告白が成功するかどうかは原告のプレゼン能力の高さじゃなくて、被告からの好感度にかかってるからな。この告白はプレゼンとしてもキモ過ぎるけど。


 ただ、たとえ好き合ってる関係だとしても、許容量を超えた好きの言語化をされると、嬉しいってよりも「怖っ」とか「キモっ」みたいな負の感情が来ちゃう気がするな。ふしぎ。きっとこれもまた「好き」という言葉が雑に人間の感情をくくってるからだろう。「好き」も「エモい」みたいに分解して考えてもみても面白そう。なんて思ったけど、僕が恋愛絡みのことを書いたらすべての文が「~らしい」「~だそうだ」の伝聞調になり、記事の信憑性がゼロどころかマイナス方向に振り切れてしまうので、やっぱりやめることにします。




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