【小説】ごわさん(1)
納品しそこねた男
辛うじて、男は運転を続けている。
明け方の、まだ群青色に薄く染まる町と同じ顔色の男がハンドルを握っていた。
つい先程、男の心は千切れた。
キャベツ一玉をもぎ裂くような音がきこえた。
『……ルートから外れています』
男は株式会社アマゾン社長、三俣(みまた)ケイスケ。
アマゾンといっても大手通販会社ではない。
安物のエアポンプがあげる泡のような、細々とした経営状況の爬虫類専門、卸販売会社だ。
ケイスケはお得意先へ商品を配送中であった。
彼の落胆は眠気冷ましによったコンビニの駐車場から始まっていた。
妻カホコから送られたLINEのメッセージだ。
それを目にした途端、ケイスケは手にしたカップを握りしめ、溢れたアイスコーヒーは足元のアスファルトを汚した。
一人娘のカナが子どもが出来たので結婚すると言っているそうだ。
カナはまだ十九歳。
子どもが子どもを産むだなんて許されることではない。
何かの冗談だろ?
そんな訳ないだろ?
『……ルートから外れています』
しかも相手は五十歳。ケイスケより六才も年上。
彼氏もどきがいることも聞かされていなかった。
……いや、そもそもケイスケの脳細胞にあるシナプスは性交渉と娘を繋ごうとはしなかった。ゲームソフトが欲しいと言っていたのは去年のことではなかったろうか? こないだ大学に入ったばかりなのになぜ結婚? つい先週だって家族揃ってジブリ映画を見ていたではないか。
脳みそが認めようとせず腐って糸をひく。
スマホがまた光っている。
耐えきれず路肩に車を止め、ケイスケはスマホに手を伸ばした。
だが、画面を見るには勇気が必要だった。天を仰ぎ目を瞑り祈る。心的ストレスからか予知能力なのか、手がカタカタと震えた。
「えっ」
一瞬にしてケイスケの顔面はドライフルーツレベルで乾燥した。
割れ落ちる寸前の口元に手をあてる。画面には娘と相手の男とのツーショット写真が表示されていた。
ドリルで頭蓋骨に穴を開けられ、イカ墨でも流し込まれたように気が滅入った。
深呼吸し、妻にしては長文のLINEをもう一度読んだ。
初めて行った店でさほど飲んでもいないのに泥酔し、介抱してもらったのが馴れ初め?……真面目で未成年の娘が自ら酒を呑む訳が無いじゃないか。
何故だ? 満面笑みを浮かべた愛娘。
よく出来た怪談でも聞くように鳥肌がたつ。
男はケイスケに挑戦するかのごとく微笑んでいた。
百円ショップで買ったような白い歯。若作りなプリントのTシャツ。遡上前の雄鮭を連想させる腹。黒ずんだシルバーリングを幾つかはめた指をカナの腹にあてている。指先の分厚い爪まで怖気立つ……。
青信号が視界に入り、ケイスケは条件反射だけで車を発進させた。小うるさい母ちゃんみたいなナビがさっきから苦言を呈している。かなり前に目的地へ向かう道からは外れていた。
どこをどう走っていたのか、気が付けば繁華街。
見覚えのある橋を渡るところだった。
『……ルートから外れています』
「うるさいっ!」
思考に合いの手を入れるように警告し続けるナビの電源を力任せに止めようとして、ケイスケはハンドル操作を誤った。
「わ、わわわ」
タイヤは雨で濡れた橋の上でスリップを起こし、車体を大きく右側へ傾けたまま直進した。数秒の出来事だった。車は派手な衝撃音と共に橋の欄干を破壊した。
ケイスケはその瞬間、
『あ、いかん。死ぬ……』
と、覚悟した。
ケイスケの目前にはふいに欄干の向こう側の風景が大きく広がった。激しいブレーキ音が鳴ったのか無音だったのかはケイスケ自身にもよく分からない。もしかすると一瞬、気を失っていたのかもしれない。
暫くして動きが止まったことを体で感知し、硬く瞑った目を恐る恐る開けた。
あわや、という寸前で何とか、ケイスケは橋からの落下を免れていた。
車体はまだ橋の上にあった。手足も一応胴体についたままで動きも問題はない。一滴の血も流れておらず、ケイスケはかすり傷さえ負っていなかった。
では、車はどんな状態なのか。
ケイスケは車のドアを開けた。
負傷者が出なかったことは幸いだった。車は前面が少し川の上にせり出た状態ではあったが奇跡的に止まっていた。時刻はまだ早朝。人通りもなく、それを見ていたのはたまたま出くわした浮浪者一名のみである。
ケイスケは安堵してドアをまた開き、運転席へ戻った。
そして電話をかけようと携帯を取り出した。昭和の男、ケイスケは携帯を縦に持ち耳に押し当てる。その時、やたらと車内に風が入ることに気付いた。窓を開けていたのか? と思ったが違った。動転していたケイスケは気付かずにいたのだが、正面のフロントガラスが金魚すくいに失敗した網のように一枚まるごと割れ落ちていた。
そしてやっと、助手席のシートに目をやり、ケイスケは頭を抱えた。
配送予定だった爬虫類の卵の保育器が消えている。
ケイスケは無我夢中で車内を探しまくった。後部座席、後部座席と運転席の間、隙間、足元、あるはずもないシートの裏まで探した。いったいどこに?
どうやら衝撃で割れた窓から、反動でその卵の保育器が飛んでいってしまったようだった。
保育器の中にあったのは爬虫類の卵、十六個である。
本日のお届け先、大学の研究グループへの納品分だ。
ケイスケは再度、車外に飛び出して早朝の橋の上を探しまくった。
橋の上にそれらしきものは一つも無かった。
川に落ちたのか?
壊れた欄干にしがみつき、橋の下を覗き込んだが川の上にもその横の歩道にもどこを探しても見当たらなかった。
「うーん」
ケイスケは少しの間、考えた。
しかし、こんな高い橋の上から落ちて、あの小さな卵が無事であるはずがないだろう。
面倒なことだ。また買い付けなくてはならない。車も……とだけ思った。
生死を分ける事故に遭遇した直後のケイスケは、判断力も一時停止状態となっていたのかもしれない。
ケイスケはその時、気付かなかった。
保育器はケイスケのいた場所からは死角となる柱の裏に落下していた。
川原に生えた草むらがクッションとなり、頑丈な箱で守られた卵は一個たりとも割れることなくその薄茶色の川の傍にあった。
そして、衝撃でその箱の蓋は開いていた。
孵化(ふか)寸前の卵が並んでいる。
その乳白色の殻の中で、爬虫類特有、白く悍(おぞ)ましい足が動き始めた。
『……ルートから外れています』
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