潜水艇「タイタン」事故についての覚書
潜水艇とは(そもそも)
潜水艇(潜水艇のうち船体規模の大きな軍用のものを潜水艦と呼ぶ)は今では「ありふれた技術」のように思われてるが、実際にはとてつもない技術の粋がこらされている。
その構造は「艇(船)」というよりも「宇宙船」に近い(というか宇宙船がそもそも潜水艇からのフィードバックで設計されてる)
軍隊においては、人が乗って操縦する兵器で「戦略兵器」に区分できるのは、空母(昔は戦艦もあったけど今はない)と戦略爆撃機の他には、潜水艦の3つしか無い。
戦車や戦闘機、ガンダム(wとかの兵器は「戦術兵器」で、その上位の「それの有無が戦争そのものの勝敗を左右する」レベルの兵器が「戦略兵器」
「潜れる」というのはそれだけ凄いことなのだ。
人間の感覚的には、水の中に潜ることは短時間であれば器具無しで容易に行えるので、そんなに凄いことをしてる実感がもちにくいのだが。
普通の人間が素潜りできるのは、せいぜいよくて1〜2分間、深度2〜5mぐらい。
それ以上になると、適切な器具のサポート、訓練無しに潜ることは死と直結する危険性がある(水深がそれよりずっと浅くても人は容易に溺死する)
※人間が器具のサポート(と訓練による高度な本人の技量)で潜ることのできるのは、よくて100m程度、最高でも400mあたりが今の限界(700mぐらいまでは技術的に可能だが、あまりに極限かつ危険すぎて実用的とは言い難い)
現代の商用潜水艇(民間で比較的容易に運用可能な潜水艇)でも可潜深度50m未満で、深度100m級となると運用は特殊領域になる。
最新鋭の軍用潜水艦でも、可潜深度は軍事機密なので正確ではないが、おおむね400m〜500mと言われている。
その潜水艦の事故救助で使う深海救命艇(DSRV)は1,000m辺りまで潜ることができるので、軍用潜水艦は1,000mぐらいまでは圧壊しないつくり(耐圧深度※)になってるようだ(ただし船殻が正常な状態。戦闘で破損した場合はそれよりも浅い深度で圧壊する)
※潜水艇の「可潜深度」と「耐圧深度」は相違する。
動作・安全を保証してる深度が可潜深度で、保証はしないが理論上(スペック上)圧壊しない深度が耐圧深度。
例えば「しんかい6500」はその名の通り可潜深度は6,500mだが、理論上は11,000mまで潜ることができる(耐圧深度)
深海艇とは
その潜水艇の中でも、最も過酷な極限環境で運用される「深海艇」は、明確に区分されていないけど、潜ることのできる深度(可潜深度)によって
「1,000m級」「2,000m級」「6,000m級」「10,000m超(フルデプス※)級」あたりが性能の目安になる。
※地球の海の最大深度が約10,920m(チャレンジャー海淵)なので、ここまでいくと事実上「海なら100%どこでも潜れる」のでフルデプスという。
「しんかい6500」(6,500m)でも世界の海の99%まで潜ることが可能。
なお「深海」の定義は「水深200m以下」なので200m以下の潜水深度がとれる潜水艇は広義で言えば「深海艇」なんだけど、あまりそういう言い方はしない。
このあたりは技術の進化により変化するので曖昧だが「深度1,000m以下」あたりが今時の「深海挺」のカテゴリの目安。
6,000m級深海艇
現代における最先端の深海艇が「6,000m級」で、運用している国は世界に5カ国しかない。
アメリカ、ロシア、フランス、中国、そして日本。
このクラスでの世界トップは中国の「蛟竜号」(2010年進水)で可潜深度7,000m。
その次が「しんかい6500」(1989年進水)だ。
中国は安全基準値を低く設定してるので(耐圧殻の厚みがしんかい6500よりも薄い)、カタログスペックなら「しんかい6500」でも7,000m超の運用は可能だけど「やらない」(危ないから)。
深海艇の歴史
歴史的に見ると、世界初の「実用的な深海艇」は1929年に日本統治下の台湾で民間人の西村一松により製作された「西村式(豆)潜水艇」と言われている(可潜深度300m)。
#蛇足。世界初の実用潜水艇は1776年、アメリカ独立戦争で使われた「タートル号」(人力動作)
現代的な設計の実用潜水艇は1888年のアメリカ海軍「ホランド号」と言われている。
その後1960〜70年代頃に「2,000m級」が実用化。
次いで1980〜90年代頃に「6,000m」級が実用化され、今に至っている。
「10,000m超級(フルデプス級)」で「実用」と呼べるものはオーストラリアの「ディープチャレンジャー(※)」ぐらいしかなく、深海特化型の特異な設計であり、より汎用性の高いものは現在世界中で目下開発中。
日本でも「しんかい12000」の建造計画はあるものの、2023年時点でまだ正式な予算がついてない状況。
※2012年にジェームズ・キャメロンが一人で操縦してチャレンジャー海淵(後述)に到達してる。
それ以前に既にフルデプス級の潜水艇は作られてるけど、記録目的のワンオフなものなので実用挺とは言い難い。
バチスカーフ(※)「トリエステ号」は1953年に進水、1960年にマリアナ海溝チャレンジャー海淵(世界最深約10,920m※※)に到達してる。
※バチスカーフはオーギュスト・ピカールが発案、設計した世界初の深海探査挺シリーズの名前(1948年〜)
※※チャレンジャー海淵の最大深度は計測困難なのでいまだに確定してない。
10,900〜11,000mまで、計測するたびに数字が異なるので、今は「概ね10,920 m±10 m」とされてる。
商用深海艇「タイタン」
「6,000m級」の深海挺の技術的、運用上の難易度は、宇宙船で言えば「アポロ宇宙船」「スペースシャトル」クラスになる(比較対象として適切ではないとは思うが、わかりやすさを優先する)
技術的には既に可能で運用実績もあるけれども、「作られたことがある」のと「実際に作って運用する」ことの間に大きな壁と隔たりがある、そういう領域。
早い話が「世界最先端、最高性能」の、トップオブトップの凄い技術の産物だ。
今回事故を起こした「タイタン」は、スペックとしては「超2,000m級」というか、「6,000m級」のやや下ぐらいの技術的なハードルの機材と考えられる。
それでも求められる技術ハードルは、決して「容易」ではなく「最難関」の領域だ。
しかも、記録達成や実験目的で「使い捨て」のワンオフ機や、訓練された専門家だけが利用する専用艇でもなく、金をとって客を載せて繰り返し運用する「旅客艇」になる。
運用方法の違いにより設計思想が根本から異なるので、一概に単純比較はし難いが、そのことにより求められる技術要件、運用定義は6,000m級とほぼ同等と考えて差し支えないと思う。
しかも「商業運用」をする以上は、コスト面の収支も無視できない。
探査艇であれば、その目的は学術探査なのでコスト面はある程度度外視できるが。
商用船(ぶっちゃけタイタンは「観光遊覧船」)である以上は運用コストは重要な要素になる。
そうなると「高い技術的ハードル(運用保守含む)」と「コストバランス」という、極めて相反する(今の技術水準ではおおよそ困難な)要素を一体どのようにして両立していたのか?
乗船代は1人3,500万円と超高額だが、ここまでの技術的ハードルが必要な深海艇なら、妥当なのか、はたまた安すぎなのかよくわからない。
#参考として、Amazonのジェフ・ベゾスが率いるブルーオリジン社の宇宙旅行(高度100kmの宇宙空間に数分間だけ出て、すぐ落ちてくるサブオービタル飛行)の費用が1人3,000万円程度と予告されてる。
日本には無いが、海外のリゾート地の観光潜水艇(深度50m程度)は2時間程度の海中遊覧で1〜3万円程度。
なお半潜水艇(船の下半分をガラス張りの水中客室にしただけなので潜水艇ではなく実質は普通の船)の遊覧なら、北海道支笏湖で大人1,650円、和歌山の串本海中公園1,800円、奄美大島のマリンビューアー「せと」なら2,500円で体験できる。
深海艇では常識とも言える「チタン球殻構造」ではなく、「カーボンファイバー製円筒構造」に不釣り合いなほど大きな窓付きという、運営会社いわく「イノベーティブ」な設計だが、ハッキリ言えば「快適で潰れやすい」構造になっている。
(快適と言っても通常の深海艇に比べれば幾分マシという程度)
カーボンファイバー製なので、軽くて強度はかなりのものだが、カーボンファイバーはどうしても簡単に細かな(目に見えないレベルの)キズやひび割れができやすく、まして潜航〜浮上で1〜380気圧という急激な圧力変化にさらされる(途方もない力で握りつぶされては、離されるということを毎回繰り返す)深海艇の外郭として果たして適切なのか。
1回の潜水なら問題ではなくても、再利用する以上は定時、定期メンテナンスの難易度、コストが途方もないと想像する。
(実質、潜航のたびに超音波診断をするとか、毎回外殻を取り替えないと安全性は担保できないのではないか?)
潜水艇の重大な民間事故はこの50年ほど発生していない(1974年日本の千葉沖で潜水カプセル「うずしお」の船内発火で2名が死亡)
#軍用潜水艦はしょっちゅう重大事故を起こしては多大な人命を失ってるが、そもそもあれは人命を効率良く殺すための兵器な上に「潜る」のが目的ではなく、敵の目を欺く(ステルス)ための手段なので。
悲しいかな安全性は「最優先」ではない(軽視もされてないが)
それぐらい潜水艇とは、基本「何かあればすぐに死ぬ」海の中で運用されるものなので、極めて高い安全性が求められる乗り物なのだ。
(飛行機や、まして普通の船舶も同じなのだが、運行されてる数が圧倒的に潜水艇よりも多いので事故が比率的に多く見えるだけ)
今(2023年6月24日)の時点では、原因究明はまだこれからだが。
どうにも今回の事故は起こるべくして起こったというか、運営側も、またこの金額を払って利用した利用客側も、よくもまあこんなものに乗れるものだ、と双方の正気を疑ってしまう。
海を、とりわけ深海の危険性を侮っていた、という感想を持たざるをえない。