涙の数だけ強くなれるよ。
「泣かないって決めてきたのに…」
嗚咽をこらえる彼女の声がかすれていくのと,大粒の涙がこぼれるのがほぼ同時だった。
あぁ,こんな風に泣くんだな,と思いながら僕は見ていた。
目の前で女性が涙を流してるなんてシチュエーション,僕の人生には滅多にない。そんな数少ない場面も,大抵は全く心の準備ができていないときに訪れて,どう対処すべきかわからずにフリーズするしかなかった。今回は涙の理由も大体わかっていたし,想定された事態でもあったので,心の余裕を持って眺められた。割とキリっとした顔のまま,表情を崩さずに泣いていて,なかなか絵になるな,なんて観賞していた。
泣かないと決めてきた割には,ちゃんとポケットティッシュが用意してあったので,計算された泣き顔だったのかもしれない。翻って僕は,想定された事態に特に対策を講じることもなく,丸腰でやってきてやっぱりフリーズしていた。もらい泣きするほどの感情の高ぶりはなかったっし,そうかと言って泣くことを責める気にもならなかった。
「黙ってないで何か言ってください」
目の前で泣いている誰かに,かけるべき言葉とはどんなものだろう。滅多に出くわす状況ではないから,これという答えは持っていないし,こんなにも言葉が無力な瞬間も他にないように思える。悲しくて流す涙も,嬉しくて流す涙も,悔しくて流す涙も,多分メカニズムは同じだ。沸き上がる感情を頭が処理しきれなくなって,人は涙を流す。感情を処理する力がゼロならば,僕らは赤ん坊と同じ頻度で泣くのだろう。思いのままに涙を流せる人は,心の井戸から自在に感情を汲み上げられるのだろう。そんな感情ゲロ状態で,外から投げ込んだ言葉が心に届くだろうか。泣いてる人に『泣いても何も解決しない』と言うのは,吐いてる人に『吐いても何も解決しない』と言うのと同じである。正しい言葉は,時に虚しい。
小学生の頃,隣の席の女の子を泣かせてしまったことがあった。眼鏡をかけていて,それを外したがらない子だった。あるとき僕は隙を見てその子の眼鏡を取り上げた。どうしてそんなことを試みたのかも,どうやって取り上げたのかも,今となっては全く思い出せないけれど,とにかくその子は突っ伏して泣き出してしまった。何でそんなことで泣くのか,全く理解できなかったけれど,余程素顔を見られたくなかったんだな,と解釈してその場は必死に謝った。帰りの会で血祭りにあげられたくない一心で。
「でも中学生になって久々に会ったらその子,しれっとコンタクトになってたんだよね」
まだ赤い目から放たれる『何だその話は』ビームに負けて,できれば気づいてほしかった話の趣旨まで言う羽目になった。
「女の涙は信用できないね,って話」
「…おちょくってるんですか?」
「あんまり面白くなかったかな?」
「もしかして女の子を泣かす度にその話してますか?」
「え?今のは僕が泣かしたことになるの?聞き捨てならないな」
「ええ,泣かされました。ていうか,話を逸らさないでください」
いつもの調子が戻ってきたので,少し安心した。あとは終始和やかなムードだった。
誤解を招くように書いてきたが,これは予備校の個別の授業中の話で,泣いていたAさんは生徒である。ここは誤解しないでほしいが,決して僕が厳しく叱責したとか,ネチネチ嫌味を言ったとか,冷たくあしらったとかいう理由ではない。ビジネスなので,生徒対応には細心の注意を払っている。
例えば,一度教えたことを忘れている生徒がいたとして,前にもやったよ,などとは言わない。初めてのノリで,もう一度全く同じ説明をする。時間が経つと忘れる,という当たり前の現象を,認識してほしいからだ。大抵の生徒はそれで,同じ説明をされたことまで含めて思い出す。説明が上手で,納得させたからといって,それが頭に残るとは限らない。むしろ,それを思い起こす作業が定着には不可欠だ。
一度教えたことを生徒の方からもう一度聞かれる場合もある。これは最初の説明が悪かった可能性が非常に高く,反省すべきことだ。説明がわかりにくくて伝わっていない,ということは少ないが,説明している内容の前提条件や適用範囲について生徒が勘違いすることが時々ある。
k回説明しても(k+1)回目の説明を求めてくる生徒はむしろ誉めてやりたい。わからないことと向き合う姿勢や,しつこく食い下がる根性には本当に頭が下がる。ただできれば僕以外の先生相手に発揮してほしい。こういう生徒がn回目の説明でついに理解してくれたときの喜びこそこの仕事の醍醐味と言えるが,丸々忘れてまた質問に来たりするので油断ならない。
集団授業では生徒を当てて答えさせることはほぼしないし,個別でも生徒が答えられなさそうなことは聞かない。教える内容以外でのコミュニケーションはレシーブに徹する。いかにラリーを続けて生徒の満足度を高めるかである。サービスエースを決めてはいけない。
個別の授業は学期ごと,講習期間ごとに申し込みがあって,教務がそれに応じて時間割を組む。生徒は講師の希望を書いていくのだが,1学期,夏期,2学期,冬期と入試が近づくにつれて需要が高まるので,希望通りに授業が入らない生徒も徐々に増えていく。生徒のメンタルも入試が近づくにつれて不安定になってくるので,愚痴ったり泣いたりする子が出てくる。
Aさんは夏期講習から担当になった生徒で,出来はかなりよかった。きちんと予習してきて,授業ではわからないところだけ聞いて,理解できたらあとは自分でやってくる。ストレスなくラリーが続く理想的な生徒だった。ドラフトなら1位指名だったのだが,残念ながら講師側に選択権はない。
今年は2学期に個別で見ていた生徒が15人いて,そのうちAさん含めて3人の名前が冬期講習の時間割になかった。これだけなら仕方ないねで済ませられたかもしれないが,冬期講習から新しく授業が入った生徒も7人いて,その中にAさんと仲の良い生徒が2人いた。生徒同士も新しい時間割をもらうと情報交換が始まる。すぐ近くの誰かに押し出されたとわかったら心中穏やかではないだろう。
これは荒れるかもしれないぞ,と覚悟して臨んだ2学期最後の授業,Aさんは特に時間割について文句を言うでもなく,いつも通りにやってきたプリントを見せてきて,出来なかったところを解説しつつ時間が過ぎていった。何だ取り越し苦労だったかと思って
「そういや冬期は個別入らなかったね」
と話を振ったら冒頭のような事態になった。これは僕が泣かせたことになるだろうか。
隣の席の女の子の眼鏡を取り上げて泣かせてしまったのは,もうかれこれ20年近く前のことだ。そんなことで泣くなよ,とは今は思わない。手に入れたいものも守りたいものも人それぞれ違う。それが傍から見てどんなにつまらないものに見えても,その人の価値観は尊重されるべきだ。心のバランスの取り方もみんな違う。何かを諦めるために,乗り越えるために,必要な涙もあるだろう。
涙のサービスエースを決めたAさんも授業の終わりにはケロッとしていた。
泣きたいのを我慢するよりは,泣いてさっさと立ち直ってくれた方がいい。
ずっと先で振り返れば,何であんなことで泣いていたのかと思うのだろう。
ひょっとしたら流した涙もその経緯も,丸々忘れてしまうのかもしれない。
僕は時々あの涙を思い出して,今日もレシーブ頑張ろう,と思えるだろう。