孤独が寂しいとは限らないことの証明。


自己紹介がてら,過去日記。

――――(2018/11/30)――――

先日珍しく,両親が僕の住む部屋を訪れたときのことだ。母親が意外なことを言い出した。

「あんた寂しくないの?あたしは無理だな,一人暮らし」

一人暮らしをはじめて6年くらいになるが,寂しいと思ったことは今のところ一度もない。というか一人暮らしに関係なく,生まれてこの方一度もない。もしかして,寂しいという感情が正確に理解できていないのかもしれない。そういう僕の性質は母親から受け継がれたものとばかり思っていたので,少々面食らった。言われてみれば,実家を出てから結婚するまで学生寮か社員寮だった母親には一人暮らしの経験がない。

無性に誰かに会いたくなるとき,一人でいたくないとき,というのがあるらしい,ということは主にJ-POPの歌詞で学んだ。会いたくて,会いたくて,震えるとか,俄かには信じがたい。アイツ今頃何してるかな,とか,あの人も同じ空見てるかな,的な発想もどこから出てくるのか不思議で仕方ない。まぁ,それはいいのだ。そういう人のことを否定したいわけではないし,そういう人と違って僕は特別,と主張したいわけでもない。接する人が多いほど孤独を感じる,という人もいるはずだし,そうではなくても,誰とも会いたくない日くらいはあるだろう。ただ,一般的な人間関係の中で,「会いたい」と言うのは比較的簡単だが,「会いたくない」と断るのは難しいので表面化しにくいのではないか,と睨んでいる。ジロリ。感情の存在比は同じくらいだろう。特定の人に偏っている気はするが。

散々分析した上で結局自分のことを書くのだが,僕は無性に誰かに会いたくなることもないし,今日は誰とも会いたくないという日もない。自分から誰かを誘うことはないし,かといって誘いを断ることもまずない。ただ,集合目的やメンバーを明かさずに「この日暇?」みたいな聞き方をしてくる連絡は黙殺するか,忙しいことにする。大体暇でも行かない方がいい内容の場合が多いし,誘う方も自信がないからそれを明かさないのだろう。しょっちゅうそんなことがあるかのように書いてるが,僕の周りはよく心得た人たちばかりなので,最近は全くない。単純に誘われる回数が少ないせいかもしれない。寂しいなぁ(おっと)。


入試も段々近づいてくるこの時期,少々難しめの問題を解説しなければいけないことも出てくる。そんなとき,よく出会う反応がある。

「説明されたらわかるけど,一人でできる気がしない」

この感覚を持っている生徒は非常にまともだ。少なくとも「説明がわかる」ことと「自分でできる」ことの間の隔たりは理解している。一方で,これ以上はできなくてもいいや,という諦めや線引きは頭打ちのサインでもある。一通りのことを習い終わって,普通の問題が解けるレベルに到達したら,この壁を越えていくことでしか伸びない。何がその問題を難しくしているのか。理解はできたけど思いつかなかったものは何だったのか。答までたどり着けなかった要因は読解力か,計算力か,注意力か。過去にあたってきた問題との共通点や相違点は何か。そんな分析を基に,自分なりの解決策を打ち出していくことでしか壁は越えられない。それをどれだけできるかが,その生徒の能力だと僕は捉えている。

仕事でもスポーツでも楽器でもいいのだが,何か新しいことを学習するときの理解の速さ,習得のスピードは人それぞれ違う。同じことを短い時間でできるにこしたことはないので,これも重要な能力の一つではあると思う。世間一般に言われる「仕事ができる」「頭が良い」「センスがある」という言葉はこの要領のよさを指している場合が多い。ただ,十分時間をかけた後の習熟度は,必ずしもスタートした時の加速度とは比例しない。コンデンサーの充電みたいなもので,時定数を短くする(≒要領をよくする)には,容量を抑えなければいけないが,容量を抑えると充電できる量(≒最終的な習熟度)は小さくなってしまう。要領と容量のジレンマだ。抵抗値を小さくすれば,時定数を小さく保ったまま容量を上げられるのだが,回路がショートする危険性も高まる。ままならないものだ。僕が一番大切だと思う能力は,要領のよさでも,現状の容量でもなく,容量を大きくする力だ。受験のために僕らが充電してあげたものなんて,その先ではほとんど役に立たない。教育の成果と言えるものがあるとすれば,全て放電した後に残った何かだけだ。

マンツーマンで担当になった生徒には,その子がギリギリ出来なさそうなレベルの問題を選んでやらせることができる。ショートしないようにゆっくり電圧を上げていくのだ。これを続けていくと,生徒たちもわかっていなかったことがわかる感覚がわかるようになってくる(ならない人もいる)。一人でできた,という体験は一度味わうと病みつきになる(ならない人もいる)。できることが増えると,問題に取り組むことが楽しくなってくる(ならない人もいる)。

「一人でできそうなんで,解説はいいです。後でやって見せに行きます」

4月から見てきて,そんな生徒が今年も何人かいる(ならない人もいる)。ちゃんと育てると,どんどん手がかからなくなっていく。嬉しいような,寂しいような(おっと)。


入試の本番では,通った塾も,使った参考書も,要領も容量も直接は関係ない。試験を受けた時の充電量だけで評価される。勝負の時は一人きりだ。学校を卒業すると,こういう機会は少なくなる。生き方にもよるだろうけど,ほとんどは団体戦になる。普通に生きていくことだって一人きりでは困難で,相応の対価を払って人の力を借りることで社会生活は成り立っている。一人暮らしの僕だって,食べるものも着る服も住む場所も自分で作り出すことはできないし,電気もガスも水道も自分で引いたわけではない。人一人の力で出来ることなんて,生活を支える全ての要素の数パーセントにも満たないだろう。

それでも,一人で出来ることに価値がない,ということにはならない。生きていく上で,人の力を借りっぱなし,というわけにはいかないからだ。自分自身も誰かに力を貸せる何者かにならなければいけない。その過程で,自分が何で勝負していくのかを見極め,一人でどこまで戦えるのかを試す時間が必要になる。最初はどこかの誰かが答を知っていることや,どこかの誰かに頼めば解決できるものが多いかもしれない。しかし,どんな分野でも先へ進めば進むほど,出会う問題は難しくなり,それを解決できる人は少なくなる。まだ誰も取り組んでいない問題に出会うこともあるかもしれない。どんな分野でも,先頭に立つ人はそんな孤独をいくつも戦ってきた人だ。オリジナルの問題を発見し,取り組む人たちは共通する姿勢を持っている。そういう人同士は分野の垣根を越えて共鳴することも多いようだ。きちんと戦える人間だ,という信頼感なのだろう。孤独を戦わず,誰からも必要とされなくなることが一番寂しいことかもしれない。

生徒たちは,同じような問題を解きながら,それぞれ抱えている課題は異なる。自分に足りないものと向き合うことは孤独な作業だけれど,同じように孤独と戦う仲間が側にいる。それを感じているだけで,大したコミュニケーションはなくても,寂しくはないだろう。こんな文章を連ねることに時間を使っている自分が何より寂しいけれど(おっと),今日も孤独と戦う皆さんへのエールになれば幸いです(ならない人もいる)。

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