大地をどう踏むか〜高校演劇・春フェス2016観劇記〜

    形式は作品の身体だ。身体のない心や自分は存在しない。自分をどうしようもなく縛り付けるものでありながら、それなくしては存在自体が不可能になるもの。形式は容赦なく作品を縛り付ける。既成のドラマや表現や観客の期待の着地点へと。だから本質的な表現者は皆、形式に抗う。既存の形式を破壊し、そこを脱出しようとする。だが大切なのは、形式の破壊と見えるものは必ず新しい形式の創造であるということだ。なぜならば、破壊が破壊しか意味せず新しい形式がそこに生み出されていないならば、それは作品自体の不成立を意味するからだ。形式は作り手を拘束すると同時に受け手への通路にもなる。その意味で、形式は作り手と受け手の両者を強固に支える土壌であるとも言える。だから問題はその土壌をいかに耕すかということだ。あまりに固い土からも脆いそれからも、芽吹くものは少ない。

    2016年3月19日(土)〜21日(月)、北海道伊達市で行われた第十回春季全国高等学校演劇研究大会(春フェス2016)を観てきた。前半に軽妙な台詞で笑いを取りながら後半でシリアスな問題を語る高校演劇の王道フォーマット(形式!)に支えられ、安定かつ充実した舞台を見せてくれたのは、愛知・蒲郡東『ぽっくりさん』、兵庫・明石南『白バラ女学院』、長崎・精道三川台『昼鶴』等々であり、やはり出場校の中で多くを占める。対して、不条理・前衛路線では、山形東『隧道』や筑波大附属駒場『ガンジス川を下る』といった力作が並んだ。それらは高校演劇の王道という形式を脱し、無言の内にそれを否定しているようにも思えるが、同時に、前者は安部公房などの今日では古典的とも言える文学的想像力に依拠し、後者は柴幸男や岡田利規などの現代の演劇スタイルに依拠することで、それぞれの形式を生み出して行ったと言えよう。難解でありながら多くの観客の心をつかんだ所以である。

    その中で徳島・城北『 Love & Peace 』は劇形式において最も果敢な試みであった。一見、高校を舞台とした王道的設定でありながら、舞台は「祈祷部」という超現実。セットも抽象と具象のあわいを行き、演技面でも「祈り」を巡って、どう考えても現実の高校生が交わすと思われない静謐かつ不穏な会話を、しかし、正統的な会話のラリーで行うという異種混淆ぶり。しかも四国大会までは、静謐さの方が前面に押し出されていたために、それ自身が一種の形式の役割を果たし、「散文詩のような美しさ」とも言われる評価を勝ち得ていたが、今回はそこに、不穏さ、禍々しさの演出が付加され、おそらく初見の観客にはつかみどころのない舞台と見なされることが多かったのではなかろうか。形式の創出よりも破壊の要素が目立ち、観客とのパイプという点では幾分心細い結果となったかもしれない。だが、そのこと自体が極めて批評的な営みの証左であり、今大会中最も果敢な実験であったことは疑い得ない。

    埼玉・川越『最貧前線』も忘れ難い。第二次大戦時の、軍による民間船および船員の徴用を扱うが、歴史的事実をそのまま描くのではなく、宮崎駿の雑想ノートから題材と着想を得て、歴史的事実を宮崎アニメのイメージに乗せて軽快に表現することに成功していた。極めてユニークな表現形式の創造と言えよう。

    大地をどう踏むか。その時の身体のありようはどうか。陳腐な現実や表現をどれほど嫌悪し嘲笑しても、この問いから逃れられる者はいない。一見矛盾するようだが、ここで最も大切なのは、大地を踏みしめる自らの身のこなしが他者にいかに見えるかを常に意識し、緊張している心のあり様、強固な意志ではなかったか。身体や大地に刻み込まれた精神の痕跡を人は形式と呼び、その心の影に人は心打たれるのではなかったか。(2016.3.23.執筆)


 


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