2021 すること したいこと
ぼーっとしているうちに年が明けてしまって
2021年にやりたいことをまとめてないなと思ったけれど
どうせ毎年の暮れにはそんなリストなんて忘れ去ってしまっているんだから
それならばやろうと思っていることを覚えているうちにひたすらやるべきだと34歳にしてようやくながら現実的な新年を迎えたような。
犬の散歩をしていたら、見た目70超えの婦人に声をかけられ、5年前に亡くなったという愛犬の写真と、最近亡くなったという知人(有名人だった)の犬3匹の話をされた。
犬が亡くなるというのは、愛犬家なら誰しもわかると思うけれど、本当に切なくて、弱くて尊い自分の身体の一部がゆで卵のかけらがポロポロと剥がれるように落ちていく感覚があって、それをこの婦人はこの5年で少なくとも4回も経験したのかと思うと涙が出そうだった。果て、自分はこれから少なくとも15年内に3匹の犬との別れを経験するだろうと思うと、今こちらを見上げながら無防備な腹を出す生き物がとてつもなく愛しくて、マンションの階段を駆け上がる後ろ足を見ているだけで涙が出た。この姿を残しておこうとビデオも撮った。
これまでに2匹の犬との別れを経験した。1匹はまだ尊いとか愛しいとかいう感覚もなくて、ただ可愛かった生き物がいなくなってしまった寂しさだけだった。もう1匹は悲しかったはずだけれど、痛みとしては記憶にない。母はもっと悲しかったろう、父は更に悲しかったろう。年を重ねるごとに死の重みを実感して、喪失に弱くなってように思う。死の悲しみ、してあげられなかったことの後悔や相手にさせてしまった悲しい気持ちに対する自分の責が悲しみの根源なのではないかと思っている。もちろんいなくなることは寂しい。でも離れて暮らしていたら不在への悲しみというよりは、もっと会いに行けばよかったとか、もっと話しをすればよかったという自分への責め苦だ。もう1匹への供養として私は腰に愛犬のイニシャルを刻んだけれど、それは以前からタトゥーをしたかった自分の希望と、いれるならば意味のあるタトゥーをいれたい(最近いれたのはライオンが走ってる絵 意味なんかない)というこじつけであって、果たして本当に彼女への供養となったのかは自信がない。大好きだった犬だけれど、愛という感覚を知らなかった若輩者にとって、今一緒に暮らしている犬ほどに愛しいと思えていたか。
気持ちの成長が遅すぎた。ようやく感情の成長が見られた昨今。
なんとかこうして日々の小さな機微を感じとっていけるようになりたいし、それを記録に残したい。どうか3日坊主にならぬよう。