自我を携え、私は旅に出る

私の有料noteは明晰夢を体験するための訓練などを記したものですが、冒頭の3500文字ほどはお金を払わなくても読める無料部分になります。
そこに私はこんなことを書いています。

③睡眠には必ず夢があり、夢とは記憶に基づく思考の一種である。

今回はこの部分について、私の経験をもとに、夢とはいったい何なのかという私の考察を書いています。
ただし、私は心理学や生理学はまったく知らないので、言葉の意味が厳密には違うものがあるかもしれませんが、私なりにふさわしいと思える言葉を選んでおりますのでご了承ください。

『睡眠には必ず夢がある』について。
これは、よく言われる"深い眠りのノンレム睡眠=夢を見ない"、浅い眠りの"レム睡眠=夢を見やすい"といった単純な話ではなく、人は(少なくとも私は)眠りの深さに関係なく、眠っているときは必ず何かしらの夢を見ていて、普段はそれを覚えていないだけなのです。

試しに目を瞑ると、真っ暗で何も見えませんよね。でも、本当に真っ暗ですか?ただの黒が広がっているようにしか見えないでしょうか。
しばらく瞼の裏の暗闇を観察していると、時たま光の線が現れたり、黒一色でもグラデーションがあるように見えたりすることがあります。
これらの暗闇に映った"何か"。これが実は、夢のイメージの元(素材)なのです。

このイメージの元が、眠る時に徐々に意識が落ちていくに連れて、次第に夢の世界を構成するようになります。
起きている時は自分の意識がフィルターとなり、目を瞑っても黒にしか見えないのに、眠りによって意識のフィルターが薄くなると『もともとそこにあった』夢の世界が現れてくるのです。
現れてくる、というより『意識の低下と相対的に夢の濃度が濃くなる』という表現の方があっているかもしれません。
目を瞑った時の黒い世界は、自分の意識のフィルターがまだ働いている状態なので、とても夢を見ている状態とは言えませんが、このフィルターが眠りとともに薄くなると、意識の向こう側に隠れていた夢の世界が見えてくる、といえば少しわかりやすいでしょうか。
意識が薄まると『もともとそこにあった夢の元』が実際の夢となって現れるので『睡眠には必ず夢がある』ということになります。

次に『夢とは記憶に基づく思考の一種である』について。
夢が記憶を基にした思考でないとしたら、いったい何なのでしょうか。
サラリーマンになっても見る学生時代の夢。朝、起きた後に思い出すと『なんであの場面にあの人が??』『よく考えると変だよな』と思うのですが、夢を見ている最中はそれに気づくことが出来ず"もう一人の私"が夢の主人公となり、目の前の出来事に疑問を抱くこともなく、それを当然の現実として物語が進んで行きます。

現実の私たちが、目を瞑って何十年も前の学生時代、そのとある一日をまぶたの裏に再現するのにどれだけの労力がかかるでしょうか。
教室、備品、クラスメイト、話題の内容、先生の表情、流れる時間…それを正確に再現しようとすればするほど、眉間に力が入って"しかめっ面"のようになってはいきませんか?
つまり"思考"が追い付いていかないのです。
仮にその場面のイメージがうまくいっても、そこから自分自身を含めて、時間とともに物語の進行までは出来ません。なぜなら思考がぜんぜん追い付かないからです。
自分が積極的に行う想像・妄想よりも、自分が寝てるときに勝手に表れてくる思考(夢)の方がはるかにリアリティがありますよね。

つまり夢とは、眠ることで体験できる思考そのものなのです。
さらに、上記の通り『夢の元(素材)はもともとそこにある』ので、それらを総合すると私たちは『死ぬまでずっと思考し続けている』ということになります。
私たちは起きている時も寝ている時も、ず~っと思考しているのです。
"寝るときは何も考えてないっす"と思うかもしれませんが、そうではありません。それは思考の捉え方が違います。
思考は自分の意志とは無関係に、脳のどこかで常に勝手に、今も働き続けているのです。

"こいつは変なことを書いてると思うし、かなり怪しい、そろそろ読むのをやめようかな"という思いや感想は、[自我]が導き出したものです。
ここでいう[自我]とは、意識、感情や欲望、身体感覚など『現実の私のぜんぶ』といった感じのものですが、ここには『記憶』は含まれません。

これは私の夢の体験からの勝手な憶測ですが、記憶は思考とセットになっていて、私の中のどこかで"常に記憶し続け、思考し続けている"と考えています。
上記の『夢の元(素材)』の話も、そもそも記憶がなければ世界を構築しえないと思うからです。
記憶と思考が合体した球体があり、その周りを自我という膜が覆っているようなイメージです。
自我が、例えば"こいつは変なことを書いてると思う、かなり怪しい"という結論は、それに至る過去の出来事や学び、危機感、常識など、総合して『記憶から導かれた思考』だと言えます。

記憶と思考の球体を覆う自我の膜が、うっすらと球体に触れている部分だけ、私たちは現実で思考が出来ます。
でも、その現実の思考とは、瞼の裏にもう一つの現実が見えてくるほどのものではありません。
明るい時間、現実を生きるには[自我]が必要不可欠です。
暗い時間、[自我]は一休み、 そのかわり、むき出しの[記憶と思考]が私を支配します。これが夢の正体です。
昼と夜、太陽と月、覚醒と眠り・・・昼は明るく活動的なのに、夜は単に暗いだけの、次の日までの繋ぎだと思いますか?
暗いと眠くなります。眠った時に、記憶と思考が何かやってて、自我が休んでるのをいいことにもう一つの現実を見せてくるんです。
自我が邪魔して、起きてるときには造りえなかった物語。教室、クラスメイト、担任の先生、主役のはずの私自身にすら、薄まりきった自我は目を向けてくれません。
でもだからこそ、夢だとしても、これが疑いようのない現実。思考は記憶を漁って、会社の同僚がクラスメイトで現れても私は疑問を持ちません。やりたい放題です。

なぜ夢の矛盾した内容に、その場で疑問を持てないのかというと、疑いの感情も自我が司るからです。寝ている時は自我がほとんど働きませんよね。
そもそもなぜ眠るのか?という疑問は、地球のサイクルに則り、自我と肉体を休ませる必要があるからだと思います。
なぜ夢を見るのか?は、眠ると自我が薄まり、相対的に[記憶と思考]が濃くなって夢となり、それを感じ取っているからです。

眠ると自我が休むと書きましたが、なくなるわけではなく非常に薄くなるだけです。
自我と[記憶と思考]が相対的な関係だとしたら、起きている時は[記憶と思考]を休めていると言えるかもしません。

さて、そろそろこのワードを出してもいいかなと思います。
[記憶と思考]は[魂]と言い換えられます。
自我と魂は、生まれてから死ぬまで、切っても切れぬ関係で存在し続けるのです。さぁ、怪しくなってきましたよ(笑)
魂の正体が本当に[記憶と思考]だとしたら私はすごく嬉しいのですが、あまり期待しませんが私が死ぬまでには何か判明したらいいなと思います。
ちなみに、安らかな死を迎える時には自我は極限まで超薄くなり、魂は最期まで残るのだと思います。
つまり、死に際も魂は勝手に働き続け、幸せな感覚(夢)をもたらしてくれたまま息を引き取っていく。自我も無いから苦しくもない。それは救いのある話だと思います。

以上、夢という現象を私なりに考察して記載しました。何かあなたの心に残る部分があったら嬉しいです。

次に、夢の内容について書いていこうと思います。
私は、夢についてこのような疑問を持ったことがあります。
それは、なぜ夢の空間には、私自身はともかく、周りの建物や人物が現実と同じようなリアルさで登場しているのだろう?
ということです。

夢に出てくる舞台、人物は私がイメージしたものではありません。その時に"魂=記憶と思考"が勝手に用意します。
現実で布団で横になって「ハーレムの夢来い、ハーレムの夢来い」と願っても、まあ来てくれないことはご存じの通りです。
それなのに、とくに願っても無い時にハーレムになることは極稀にありますが。。
自分の強いはずの意志(ハーレム来い)が普段の夢の内容に影響を与えられないのなら、一体なにが夢の内容を決定するのでしょうか。

ひとつ参考になるのは、「お腹に手を置いて寝ると悪夢が見られる」というものです。
これは、お腹に手を置いて眠ると無意識状態になっても体は息苦しいと感じ、それが悪夢を見せて息が上がり、ハッと目が覚めるというものです。
皆様も一度くらいは悪夢で目覚めたことがあると思います。身体のどこかがしびれていたり、布団の掛けすぎで重く暑くなっていたり、理由は様々ですが、悪夢の特徴は"目覚めてしまう"ことにあります。
つまり、悪夢を見せて私を起こさせる目的は『身体がなんか変で、うまく休めないから一度起こすね。変なところは改善して、また寝てね』というメッセージです。
起きている時に強い意志で願っても見たい夢は見られないのに、寝ている時に身体の状態がおかしい時は悪夢で知らせてくれる。
これは自我が強い時の『想いや意志(例えばハーレム来い)』といったものは、眠ったときの"魂優勢"時にはほとんど影響を与えられないことを表しています。
"身体の状態が夢の内容を決定する”。でも、悪夢以外で、例えば超ハッピーな気持ちで寝て、ハッピーな夢を見られるかというとまた違うので、これは"身体の状態が危険"と判断された時限定なのでしょうか。

もし、見たい夢を見たいなら魂そのものの部分にアプローチしたいものですが、考えれば考えるほど、魂=[記憶と思考]は巨大すぎる上にとらえどころがなく、理解が進みません。
皆さんは普段夢を見ていて、後からこう思ったことはありませんか?
『夢なんだからさ、なんであの時自分はああしなかったのか…』と。
結局、夢の中の自分の考えや行動って、イヤになるくらいちゃんと常識に囚われている自分自身なんですね。
これは、過去の自我すら記憶として扱われているということで、つまるところめくるめく大冒険、またはすればよかった告白、もしくは夢でしか出来ないようなアレコレが、やってみたいのに出来ないというジレンマに陥ります。

見たい夢を見るために、寝ながら念じてるだけではだめ。変な姿勢で寝ても悪夢になるだけ。夢の内容は常識に縛られまくった自分自身でコントロールも出来ない、魂さん次第。ということになります。
そうなると、行き着くところはもう明晰夢(体外離脱)しかありません。
明晰夢とは"夢を自覚した状態"をいいますが、魂と自我を球体と膜に例えるなら、自我の膜が薄~くなり、相対的に魂の色が濃くなり始めた特定の段階、絶妙な具合の時に体験出来るレアな体験です。
明晰夢を体験すると"念じた人が出てくる"とか"体を浮かせて空を飛ぶ"などの体験ができますが、魂が作り出した夢の世界に、自我を持った『この私』が降り立つワケで、それはそれはもう素晴らしい体験なのです。

自我(意識、感情、身体感覚etc)があるから、周囲の登場人物に触れれば、彼らも反応して、本当に生きていると感じるでしょう。
夢はファンタジーではありません。覚えてもいない現実をずっと記憶してきた魂=[記憶と思考]が作り出した、もう一つの現実なのだから当然です。
でも"寝ながらにして起きている"という特殊な状況である明晰夢なら、自我は魂に影響を与えることができます。
つまり、見たい夢、体験してみたい夢は実現できるのです。ファンタジーも絶景も大冒険もアレもコレも、あなたの意志でなんでも出来るのです。
とうぜん、自我がありますから、現実同様、時にはそれ以上の"実体験"が得られるでしょう。
そこに至る道のりは人によりますが、自分自身の中に、こんなにも凄い世界があったのかと感動します。

さぁ!あなたも今夜、自我を携えて夢の世界へ旅立ちませんか?

見たい夢を見てお金では買えない幸福を追求する、体外離脱・明晰夢の実践方法

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