お弔いは、悲しむことじゃない。
福島へ滞在中。
旅の主目的は、昨年闘病の末天に召された親友を弔うこと。
昨日、納骨があり、永眠先である茨城県までうかがった。
そのまま足を伸ばし、彼女と旅をした土地を再び訪問中。
闘病生活も共に過ごした彼女が虹の橋を渡ってからも、私の中では全くピンときていなかった。
彼女は旅人で、直近ではインドでバックパッカー向けの宿を経営していたし、帰国しても日本各地で泊めてくれる人に困ることがなかった。
我が家に何泊もすることもあったけど、その時も、それぞれが好きなことをしてたし、連絡がお互いに取れないことすらあったけど、心の中がつながってなかったと思うことが全くなかったから。
だから今もなんとなく、電波が通じないところにいるだけだと思っていた。
それしか認めないというか、認めたくないというか。
でもどうやら違ったみたい。
電波の問題じゃなくて、ビデオがオフというだけで、むしろお互いのオーディオは常時接続状態になったとある時に気がついた。
納骨の日どりが決まってから、その感覚が強くなった。
彼女にとって、そして私にとって、二人にとっての弔いってなんだろうとずっとずっと、いやいつも考えていた。
納骨が終わって、あらためて口に出すとしたら、私にとって、いや私たちにとってのお弔いは、
彼女の死を悲しむことじゃなく、彼女が一番喜ぶことをすることだなと。
私が元気で幸せでいること。そして彼女が応援してくれていた今の事業や、私のビジョンをさらに実現させること、
そして自由に希望を持って生きることをモットーにしていた、彼女の分まで、私がこの地上の美しさや素晴らしさを彼女と共に体感しつづけること。
彼女は風になってしまったから。体感できないもんね。
肉体から離れた彼女は、ますます自由に希望をもって、私のことを見守り励ましてくれている。
そして肉体を持っている私がすべきことは、彼女の分まで使って、この地上の素晴らしさを味わいまくることしかないんだな。
私があんたの目になって、耳となって口になるよ。
この世界の美しさを味わいつくすよ。あんたが羨ましくなって、また出戻ってくるくらいを目指して。
彼女はもと同僚なので、私と知り合う以前に二人で飲んだくれていたこともある夫も、私と彼女のことをそう思ってくれていたようで。納骨の日から続くGW期間、彼女と三人で旅した福島の宿を予約してくれた。(ありがとう)
今日はその宿から。大河ドラマ【八重の桜】のロケ地として使われた宿。昨年末三人で訪れ、桜の頃にまたこようと約束したから。心は一緒に旅をしている。
彼女の分まで、彼女の目となり手となり、そして飲んだくれの彼女の肝臓となって、昨年以上に楽しまなくちゃ!
ということで、弊社は5月1日まで休暇ですので、コミュニティでのお返事やメールの返信なども、それ以降となります(それここでいうか!)
夫が企画してくれた今回の旅のプランが最高にイカしている
今滞在中のこのnoteを書いている部屋は、川に面した露天風呂付きお部屋。
明日の宿もちょっと楽しそうなお宿
宿レポはまた追ってとして、
ここで言いたかったのは、私にとっての、お弔いは、故人にとって一番いいようにふるまうこと。
それが悲しみに浸ることの場合は、それもいいだろう
でも、それ以外の形もあっていいかなと。
親友は、めちゃくゃ与える人だったので、多分みんなが最高に幸せでいることを望んでいると思う。
だから、彼女の想いを汲んで、私は最高に幸せになろうと思う。
地上での滞在期間を大切に暮らし、彼女の目や口や手となって、
彼女の分まで、暴れまくって楽しみまくって、この自分が地上でできることを精一杯してやろうじゃないかと。
あくまで私と彼女のケースだけれど、参考になる方がいたらヤツも喜ぶんじゃないかな。
というわけでまた。