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【つぶやき】論理的思考のその先に、さらに自由な世界がありそうです。


一瞬遅からず一瞬早からず、
という言葉がありますが、「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」という本との出会いがまさにそんなタイミングでした。

この本は平成11年、西暦1999年、つまり今から21年前に新潮社から出版されたもので、

人間観察、人間研究を徹底的に追求されてきたお二人の対談がまとめられているのですが、彼らの視座の高さ、視野の広さ、そして謙虚な姿勢に圧倒されました。(河合隼雄さんは1928年生まれの日本を代表する心理学者さんです。)


ちょうど友人と、

「自己主張と自己利益を最優先する民族と、おかげさま=わたしは全体の中で生かされているという感覚を持つ民族が、それぞれの長所を認め合えるといいのにねぇ」

などという意識高い系(笑)の会話をした2日後くらいにこの本に出会ったのですが、そんな薄っぺらい会話がひと吹きで飛ばされるほどの、ある種の答えのようなものがそこには書かれていました。

残念ながら、わたしの稚拙な文章力では要約不可能なので、気になる方はぜひ本をお読みいただけたらと思います。(ゴメンナサイ)


また、自分でも薄々感じてはいたのですが、近頃のわたしは「論理的であることが正解」のような節があり、分析と言語化を心の拠り所としていたのですが、これについても頭をガツンと殴られるような衝撃のフレーズがありました。

以下は河合隼雄さんの言葉の抜粋です。

「これはぼくはアメリカ人に強調しているんですが、すべて分析して言語化しないと治らないというのはおかしい。また、言語で分析する方法は、下手をすると傷を深くするときだってあるのです

〜中略〜

完全に分析しようとすることと、言語化しなくても治るということと、その中間点的なところに箱庭(療法)があるわけです。」(抜粋終わり)


言葉は一部を切り取ると誤解を招くこともあるのであまりこういう抜粋の仕方は良くないだろうなと思いつつも、この言葉から受けた衝撃があまりに大きく、こちらにもご紹介させていただきました。


自分の心が楽になることを理由に常に中庸でありたいと願い、対立する2つのいいとこ取りをしたいと思っていたはずが、

ここ数年のわたしは問題解決の場面において「分析と言語化、論理的であること」という正義の剣を常に携えていたということに気がつき、そこに気がつけたことが嬉しいような恥ずかしいような、なんとも表現のしようのない感覚になり、

13年前にお亡くなりになった河合隼雄さんから、21年の時を超えて「物の見方が偏っていませんか」「視野が狭くなっていませんか」とやさしく諭されたような気がしたのでした。


今回この本に出会ってしみじみ思ったのは、誰もが発信できる時代になったからこそ、情報があふれているからこそ、質の高い情報を選べる自分にならないと受け継がれた叡智をとりこぼしてしまう、、、ということでした。

もしかすると、一昔前よりも「車輪の再発明」が起きやすい時代なのかも知れない、、とも思いました。


わたしは学生時代に「学問をする」センスが皆無の人間でしたので、今更ながら自分の教養のなさに愕然としつつ、

けれど皮肉なことに恐らく「今このタイミング」でなければ理解するために必要な最低レベルのセンスも持ち合わせていなかったと思うので、

気を取り直して、これからいよいよ「長く受け継がれている良書」をしみじみと楽しんでいける時代の幕が開けた!と思って、「質が高く密度の濃い叡智」に触れる機会を増やしていきたいなと思っています。

ずいぶん長い「つぶやき」になりましたが、最後までお読みくださってありがとうございました。

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このnoteでは「マイナスからゼロへ、そして人生を面白がる達人へ」というテーマで自分自身の体験に基づく記事を綴っています。

以下は今日までの人気記事BEST3です。
こちらものぞいてみてもらえたらとても嬉しいです^^

1位「人を助けたい=傲慢?」

2位「地に足のついたスピリチュアル②」

3位「人から大切にされるには」


最後までお読みいただきありがとうございました。
またお目にかかれますように^^


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