夜に抱擁されたい
キューライスさんの『よるのえ』を読んだ。
かつて夜に不思議があった。早寝をする家に生まれたので、自分が寝ている間に何が起きているのか分からない。そんな時期が長かった。21時過ぎに寝て7時に起きる子供にとって、深夜の時間は存在すら確かなものではなかったのだ。
大学に入ると明日の予定に縛られない夜が増えた。自由な夜は素晴らしい。ゆえに深夜の活動が増えて、地中に沈んだ太陽が切れ間なく地球を回り、また地面の下から登ってくる事を知った。夜の散歩が気持ち良い事も知った。
『よるのえ』に描かれるような不思議な光景が、この夜のどこかにあるのかもしれない。夜はそんな気になるのを許してくれる。
『夜は短し歩けよ乙女』(映画)では一夜が恐ろしく伸ばされ、夜のどこかで様々な事件が常に起こっている。夜にはそういう不合理を受け止めてくれる包容力がある。もしくは夜には昼とは異なる合理が働いている。
早起きばっかしたくね〜〜〜
仕事を始めてから6時に起きている。めんどくせ〜〜。でも夜に仕事もしたくね〜〜。夜更かししたいけど、次の日の疲れがめんどくせ〜〜〜。老人〜〜。
夜は包容力があるのに、朝には優しさがない。
土日休みだったので漫画を読みまくったり、YouTubeを観まくったりした。『ゆる言語学ラジオ』を最近の投稿まで追いついたりした(雑談回を幾つか後回しにした)。昨日のサブカルの話と似てるが、「あたりまえのもの」が何故そうであるのかを追求していくうちに学問になる、のかもしれない。サブカルもいずれ学問になるのかもしれない。サブからメインへ。
インプットばかりしていると、しんどくならないか、という会話がラジオの中であった(奴隷合宿回)。最近インプットをあれこれしてるが(身になるかどうかは置いといて)、インプットせず無になる時間は取れているだろうか。インプットしない時間を取れているだろうか。
瞑想とかもしっかりやりたいなー、思っている。『ミッドナイト・ゴスペル』がすごく好きだ。宗教みのないスピリチュアルな体験みたいなのが結構好きなのである。しかし、なかなか生活の中で抜きの時間を取れていない。取れていない割にはそんなにインプットが苦でないのは不思議だなー。
と思ったのだが、すぐに結論が出た。仕事が抜きだからである。仕事というものは(今のところ)大体慣れれば作業なので、頭をあまり使わない。ぼけーっと考え事をしながらあれこれ手を動かして、気づけば退勤時間になっている。この強制的にインプットを妨げられている時間によって、仕事以外の時間のインプットの活力が作られているのだ。そしてお金も貰えるから一石二鳥である。僕は遊ぶ金が欲しい。
インプットばかりしている事を危惧して始めた日記も、1ヶ月を越した。今のところ毎日書けている。これは習慣としてもうしばらく続けていきたい。
喫煙と仏具は同じ仲間。