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恋はほとんどが錯覚なのに#34

恋愛系の記事を読んだり書いたりしていると、テクニックや心理系のライフハックがよく出てくる。

で、一歩離れてみてみると、恋なんて、そんな心理をつかさどったシーソーゲームだと、冷めてみてしまう。

あれ?それは自分が知っている恋とは違う……

なんて思うものの、恋愛テクニックに羅列されている技術は、なるほど、全部私が使ってきたものだ。

あれ?じゃあ、あの恋は、心が求めていた純粋な恋とか愛とかそんなんじゃなくて、どう相手の心を揺らすかのゲームだったの?

そんな疑念がうまれる。

メールを待つのに恋焦がれていたのも執着で、やきもちを妬いたのも自尊心を傷つけられたからで、偶然会えて心躍ったのも脳内ホルモンの分泌のせいなのか…

結婚してそんな恋愛市場を去った今は、まあ、そうかもしれないとも思う。

だって、もう何も残ってないのだ。

切ないも、愛しいも、悲しいも、悔しいも、愛しいも、永遠と思った気持ちも。

全部、全部全部、何もない。

特別になった彼氏の誕生日も、忘れると怒った記念日も、たくさんの時間を過ごしたはずのいろんな思いでも。

もう、霧のむこうのように、夢の中の様に、遠い。

恋は、やはり錯覚だったのか。

全部、まやかしだったのか。

なんとなく、脳内ホルモンに振り回されてきただけだったのか。

そうかもしれない。

でも、その結果、結婚して家族ができて、遺伝子を運ぶための子どもがいる。

ああ、人は、こうやって錯覚の中、適度に楽しんで命をつなげてきたのかもしれない。

錯覚だから、あんなに没頭できたのかもしれない。

運命を、ずっと探していたのかもしれない。

恋は、ほとんどが錯覚だ。

だから、戸惑うことなく、本能のままやりきって正解だったのだ!

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