地図にない島 #6 祖父の贈り物
つなぎ合わせた空間の門は、ぼくの部屋に直結していた。
住み慣れた、アパートの部屋。
ほんの短時間の島滞在だったが、空気の密度の差を感じる。
デジタル時計の値は、向こうへ行った時から秒数だけが動いていた。
同じ位置で光る満月が、開けた窓からのぞいている。
ネプラは門から出てこない。
「また会うことが、あるかな?」
「それは、主ときみ次第だ」
次の瞬間、煙が消えるように、ネプラも門も部屋から消えた。
ぼくは、しばし、その場に立ち尽くす。
なんてゲンキンなものだ。
今日の午後まで、カケラも意識にかすめなかったのに。
置き去りにされた子犬みたいな気分だ。
クローゼットの前に広げたままの、過去の遺物たちに、目をやる。
一度開けてしまった蓋は、戻すのに大変な労力が必要になる。
明日は出勤だし。
手の中にある、祖父からの贈り物が、急に重くなった気がした。
開封する前に、気分を落ち着かせなくては。
まずは、コーヒーを淹れよう。
インスタントしかないけど。
湯を多めに沸かしてポットに入れ、インスタントコーヒーの瓶と一緒に机に持ってきた。
続けて2杯飲んだが、黒い包みは、まだそのまま手つかずで前にある。
小学生時代に使っていたマグネット開閉の筆箱くらいの大きさの箱が、ベルベットのような黒い布で包まれている。
持った感じ、重さは、500ml缶ビール1本分くらいだろうか。
振っても、音はしなかった。
このまま眺めていてもはじまらない。
意を決して、包みを解く。
模様を刻んだ木箱が出てきた。
箱の中央に直系5cmほどの円形に、平らに木肌が残っている部分があるが、それ以外の面には全て、手彫りがされている。
かぶせ式の蓋は狂いなくきっちりと本体と噛み合っていて、紙一枚入る隙間もなさそうだった。
透かし模様の隙間から、麻と思われる布の包みらしきものが収まっているのが見てとれる。
エクウに、制作を依頼した...と。
ぼくに、渡すためのモノを。
島のことを全て、忘れたままで生きていってもいい...と言うわりに。
わざわざ、手渡すために記憶を呼び覚まさせる?
まるで意味不明じゃないか。
きっちり閉まった木の蓋を、外しにかかった。
...が、びくともしない。
何か、開けるための条件があるに違いない。
それを、ぼくが見つけられるかどうか...というのも。
このプレゼントの意味、その一環なのだろう。
意味ありげに彫り残された中央の円形部分が気になるが。
指で押してみても、何も起きなかった。
そんな単純な仕掛けのわけがない。
思い出せ。
おじいちゃんがやっていた、儀式めいた手順のいくつかを。
今夜は満月だ。
偶然ではなかろう。
窓際に箱を持っていき、月明かりが当たる(そんな感じになる)ように置いてみる。
しばらくして、改めて蓋を開けようと試みたが、やはり動かなかった。
月光浴ではなさそうだが、それでも、月は関係あると思える。
考えろ。
ヒントは必ず、あるはずだ。
今、ぼくの手の中に、必ず。
クローゼットの前に広げられた過去の遺物の前に戻る。
改めて、一つ一つ吟味しなくては。
まず気になったのは、絵具を詰め込んだ箱だ。
島へ行く前に、ざっくり中身を確認はした。
様々なメーカーのものが入り混じった絵具類の他に、製図道具や小刀など、小道具類が一緒に入っていた。
多くは祖父の愛用品だ。
祖父から直接もらったものもあれば、遺品として譲り受けたものもある。
何かある可能性は高い。
箱を開けると、果たして。
四角い、薄紙の包みが、真っ先に目に入った。
うっすらと、包みの周囲が光って見える。
島へ行く前に中身を確認した時は、ただの古っぽくなった和紙の包みにしか見えなかった。
これは、たしか、祖父の携帯用硯箱ではなかったか?
ああ、いや、携帯用硯箱は別にある。
巾着袋に収納されて、今すぐそこに置かれている。
そうじゃなくて、この箱の中身は…
“これは、昔の人の<筆ペン>みたいなものだな”
祖父の声が、よみがえる。
“筆ペンより不便だが、趣があるだろう?”
薄紙をはがし、和紙の箱を開ける。
“ここは筆筒で、ほら、出てきた。墨は、綿を詰めて含ませるんだ”
筒状の容れ物の先端を引っ張ると、小筆が出てきた。
筒と紐で結ばれた、印籠のような形の小箱は、墨壺だ。
そう、思い出した。
「矢立」だ。
これの名称。
いや、けれど。
祖父が手に入れてきて見せてくれた品とは、別のモノだ。
あれは、墨壺と筆筒は一体になっていて、柄杓のようなスタイルだったはず。
それに、鋳物だったような。
この矢立は、何でできてるんだ?
木や竹ではないし、陶器でもない。
表面は金属風だが、金属製でもないような。
引き出した筆は、少し長めの万年筆くらい。
筒の中に収納されているのに、さらに筆先がネジ式のキャップで保護されている。
キャップは細長い籠のような形状で、細いワイヤーのようなものを編んである。
なんという繊細な作りだ。
そっと回してみると、スムーズにはずれた。
筆先は、キレイに整えられていて。
使った形跡はあるが、まるで痛みはない。
祖父がこれを使っているところを...見たことが、あっただろうか?
しばらく記憶をさぐってみたが、どうにも、思い出せない。
愛用品という雰囲気ではない。
そうだ。
これは、納骨後に、叔父から渡されたんじゃなかったか。
ぼくに渡すようにと預かっていた...言っていたような気がする。
ぼくは、これを開けたことがあっただろうか。
それも、どうにも、思い出せない。
そんな大事なこと、忘れるものか?
いくらぼくが当時のことをあまり記憶していないとは言っても。
墨壺を、開けてみた。
中には、透明な水が、入っている。
密閉容器でもないのに?
少なくとも23年開けてない容れ物に?
実家を出てから3回引っ越して、その度に移動させてきた開かずの箱の中で。
蒸発も、こぼれもせずにか?
透き通っていて、匂いもしない。
ふと気になって、墨壺の小さな蓋を、ひっくり返してみる。
奇妙な線が、刻まれていた。
文字のような、記号のような。
何が書かれているのか、さっぱりわからないが。
これは、エクウが作った道具だ。
きっとそうだ。
その瞬間。
どこかから、ぼくの中に、「それ」が、流れ込んできた。
エネルギー?
イメージ?
記憶?
なんといったらいいのか。
視覚で感じたのは一瞬で、あっという間に通り過る。
後から、奥底の方からじわっと、浮かび上がってくるように。
遠い日の記憶を掬い上げるのに似た感じ。
ぼくは祖父の矢立を持って、窓辺に立った。
蓋を開けた墨壺を、開け放った窓から外へ差し出す。
中の水を、月光に浸すように。
霧のように、うっすらと光る粒子が空中から現れた。
一筋の光の流れとなって、壺の水へと溶けていく。
光が消えて、壺の中がただの水に戻るのを見届け。
壺に、蓋をかぶせた。
何をするか、わかった。
これは、「継承式」とでも呼ぶべきものなのだ。
つづく
文章/川口緋呂@神龍画家
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