たそがれは、逢魔の時間。
【SHORT STORY】
『あさき春、長町武家屋敷のMagic Hour』
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今夜は長町の料亭で会食がある。
ありがたいことに、場所は自宅からすぐ近くだ。
いつものように香林坊バス停を降り、通勤路である長町武家屋敷の路地に入った。
まだまだ浅い春、しかし微かに金木犀が香っている。
このまま直行しても良いのだが、そうは云っても金沢を牛耳る御歴々も来る宴席である。
いったん自宅に戻りネクタイくらい替えようかと迷っていたとき、その女性が私を足早に追い越した。
ドキリ、とした。
長く、艶やかな黒髪。
ふっくらとした、やや面長の横顔。
そして、ベージュのスプリングコート。
まるで30年前の彼女に、生き写しだった。
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“生き写し”と思ったのは、大学卒業後しばらく経って、彼女が病気で亡くなったことを人づてに聞いていたからだった。
女性の横顔は記憶にある面影そのままだから、これはきっと「他人の空似」には違いない。
(しかし、彼女の娘という可能性はあるのではないか?)
私はいま目の前を歩く“彼女”に追いつき、それを確かめたい衝動に駆られた。
出来るだけさりげなく、けれどすこしだけ急いで歩く。
心の臓が、石畳みをコツコツと刻んでいる。
“彼女"はいまちょうど、鏑木商舗(かぶらきしょうほ)の角を曲がった。
しかし、そこにはもう、ベージュのスプリングコートの後姿はなかった。
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「黄昏」の語源は「誰(た)そ彼(かれ)は?」からくる。
それは「人の見分けがつきにくい時分」を意味する。
彼女はいったい誰で?
そして何処に消えたのだろう?
空には少しだけ欠けた満月が上がっていた。
急に暗くなりだした石畳みの路地に立ちつくし、私はネクタイを替えに自宅に戻るかどうかまだ、迷っていた。