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#5自動車の普及で移住が進んだ!?
別荘地の二地域居住
1966年はマイカー元年と呼ばれた年です。日本でもモータリゼーションが始まります。1967年、山梨県、長野県、岐阜県の山々を貫く中央道が調布IC - 八王子ICで開通します。東京と名古屋、双方から建設が始まった中央道はこれを皮切りに、1975年当時日本一の長さを誇った恵那山トンネル(現下り線延長8,400m余)や笹子トンネル(延長約4,700m余)がそれぞれ完成し、1981年全線開通しました。ちなみに、荒井由実(松任谷由実)の中央フリーウェイのリリースは両トンネル完成の翌年1976年です。
中央道沿道では、八ヶ岳の西麓(蓼科)から南麓(富士見・北杜)、東麓(清里・野辺山)にかけ、別荘地の開発・分譲が始まります。
1964年に八ヶ岳西麓(蓼科)の長野県茅野市北山で(株)蓼科ビレッジが分譲を開始。翌1965年には東麓の長野県南牧村(野辺山)で(株)西洋環境開発が八ヶ岳高原海の口自然郷の分譲を開始。1970年(株)八ヶ岳中央観光が長野県原村と現・山梨県北杜市で分譲開始。1973年には(株)三井不動産が蓼科高原三井の森を茅野市北山で、1978年に東急不動産(株)が茅野市北山で蓼科東急リゾートの分譲を開始しました。
1960年代後半から70年代にかけ別荘地開発が進みました。 マイカーの普及・高速道路の開通で、別荘地と大都市圏を行き来する人たちが当時の富裕層が中心に誕生しました。 https://maps.app.goo.gl/fnB45v9Dt8YyqmEm7
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出典:google mapをベースに筆者作成
別荘地へ移住 - ペンション経営へ
一方、1973年の第1次オイルショックを契機に日本経済は停滞し、ベンチャーブーム(第1次ベンチャーブーム)と呼ばれる起業や、脱サラブームと呼ばれた脱サラ起業が始まります。
1970年に別荘地分譲が始まった長野県原村では、1973年『原村・ペンションビレッジ』でペンション用地の販売が開始しされます。現在は46軒ほどのペンションが営業を続けています。
(https://www.haramura.com/index.php/access-sub/pv1map?view=category&id=9)
また、隣の富士見町でも現在15軒のペンションが営業しています。
https://www.town.fujimi.lg.jp/site/kanko/list135-800.html
ペンション経営者のすべてが東京圏からの脱サラではないかもしれませんが、ペンション経営を始める人たちが、高速道路の開通、別荘地分譲、脱サラブームと相まって全国に広がり、東京圏から移住し事業を始める人も少なくなかったようです。
バブル経済とその後
続いて1980年代後半から始まり、1990年代前半まで続いたバブル経済期を見ると、いわゆるリゾート法(総合保養地域整備法)が1987年に施行され全国でリゾート開発が進みます。同法の適用を受けた長崎県のハウステンボスは1988年に着工し1992年に開業しました。オランダの街並みを再現したハウステンボスにはホテルやレストランが立ち並ぶ他、運河に直接繋がってプレジャーボートを係留できる豪華な別荘も販売されました。
また前回の#4で記したように、このバブル期、住宅を求めた移住が起こりました。リゾートブームも重なって、熱海、沼津、上毛高原、越後湯沢、那須塩原などの別荘・リゾート地域からの新幹線通勤が始まりました。
その後地価バブルと呼ばれたこのバブル経済は崩壊し、全国でリゾート開発は停滞期に入ります。
戦後の高度成長とともに脱東京の動きも
このように車の普及、別荘地などの開発、リゾートの開発とともに、2地域を行き来する生活(二地域居住)が始まりました。憧れの軽井沢や大磯、箱根などを行き来する政治家や大経営者の生活モデルを追いかけたとも言える時期でした。
また一方でペンション経営などの脱サラ移住の動きが1970年代から始まっていますがそれは一部の人たちでした。一般の人たちは地方から大都市圏に移住した人であっても、その後の移住とは大都市圏内での転居のことでした。
次の移住はICTの発展を待たなければなりません。
冒頭の絵はChatGPTが描いたものです。