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ロゼ(ROSÉ.로제)氏とBruno Mars氏の"APT."(아파트),一体何がかくも刺さるのか?改訂版 #KPOP

ロゼ(ROSÉ.로제.1997-)氏とBruno Mars(ブルーノ・マーズ.1985-)氏のコラボ作品,"APT."[アパトゥ]が国際的な大ヒットとなりました.一体何が私たちにかくも刺さるのでしょうか? 作品の秘密を.202411.09.改訂

*マーケティング論,チャート論,経済学,アーティストを取り巻く芸能論や社会学などについては触れません.それらについてはネット上にも別に素晴らしい論考がたくさんあると思います.

ここでは 野間秀樹著『K-POP 원론』(K-POP原論。日本語版はハザ,韓国語版は연립서가)で述べているように,言語学や美学の観点からひたすら作品を直視します.

●〈変化〉が決定的だ!
K-POP作品にあっては,予定調和を避ける〈変化〉という要因が作品の質を決定する重要な鍵となります."APT."は,複合的な多層の〈変化〉に充ち満ちています:

① ROSÉ氏とBruno Mars氏の出会いという〈変化〉.これは数年前でさえ,おそらく誰も想像もできなかった出会いでしょう.外から見た〈変化〉です.
② 2人のアーティストがそれぞれ歩んできた道における〈変化〉.これは①が動因となっています.個々のアーティストの個人史における〈変化〉です.
③ 曲内部の動的な〈変化〉.軽快で楽しい「アパート」という掛け声の機械的な反復から,思いもしなかったような,哀愁に満ちた美しい旋律に切り替わる,曲内部での変化です.
④ 「母音a+激音pʰ+母音a+激音tʰ+母音ɯ」からなる「아파트」[apʰatʰɯ][アパトゥ]という韓国語の音と,英語を往来する〈変化〉.これは後述の〈複言語主義〉(plurilingualism.복수언어주의)という戦略です.
⑤ MV(뮤비. ミュージック・ビデオ)の視覚的な映像の動的な〈変化〉.2人で繰り広げる茶目っ気に満ちたいたずらっぽい動作,アンティクス(antics)の〈変化〉.

●"APT."は多層の〈変化〉の見事な統合体
"APT."はこうした多層の〈変化〉の見事な統合体として造形されています.つまり〈かたち〉にされています.どこをとっても,〈変化〉に溢れ,私たちを刺激して止まないのです.「アパトゥという繰り返しが耳に残って」と言われますが,そのように「残る」には,単に繰り返してもだめなわけです.作品内部の一連の造形の中で,重なる〈変化〉によって「アパトゥ」が浮かび上がるようにできていて,なおかつ,哀愁に満ちた美しい旋律のほうも浮かび上がる.全編が「アパトゥ」だけでも美しい旋律だけでもだめなわけですね.互いが互いを際立たせるこうした仕組みが,曲の全体を支えています.

●〈K-POP=「韓国の」ポップス〉ではない!
さて,K-POPは「韓国のポップス」などと言われていますが,実は今日の先進的なK-POP作品の"K"とは「韓国」や「韓国の」という内実をはるかに超えています.「Jポップは日本のポップスで,Kポップは韓国のポップス」などという表現は,資本についてのみ語るなら,ある程度は合っているかもしれませんが,作品について言うなら,誤謬,せいぜい半分しか合っていないといったところです.

●"K"とは,はるかに重層的なマルチ・エスニックで,多文化的な"K"
実は"K"とは,はるかにマルチ・エスニックで,多文化的,国境横断的,それも重層的なのです.これらを端的に〈多元主義〉(polycentrism)と呼ぶことができます.中心=センター(center)がたくさん(poly-)あるということですね.アーティストもそうですし,造形される作品自体が多元主義的な造形なのです.K-POPは確かに韓国歌謡,韓国のポップスの中から生まれました.それも音楽の一分野として生まれたのでした.しかし今日のK-POPの本質は〈多元主義〉にあります.さらに音楽の一分野ではおさまらなくなって,MVを核に,視聴覚と身体性までをも統合した造形をなして,音楽という枠をとっくに超えてしまった,全く新しいアートの姿を見せています.

●〈多元主義〉グループ最前衛のBLACKPINK
BLACKPINKというグループは,まさにこうした〈多元主義〉を切り拓いてきた,最前衛の〈多元主義〉グループそのものだと言えます.アーティスト自体が韓国やニュージーランド,オーストラリア,そしてタイなどなどといった,多様な文化を担っています.重要なことはここです.そうした多様さ,異質なものを,韓国語圏は,排斥するのではなく,温かく優しく抱き,統合し,さらに高度な地平でアートを造形していくということを,実践してきたのでした.作品を見れば一目瞭然です.1人1人をアイテムのように扱いながら全体を作るのではありません.号令の元に一糸乱れぬ,といった軍隊の集団行動のような造形では全くありません.常に1人1人のアーティストが息づいている.音声でも常にトラックはマルチ・トラックであって,4人のトラックが常に存在していて,それらがofとoff繰り返す.視覚的にも,4人が,場合によっては共にするダンサーの人々も,常に息づいている.私がいてあなたがいる.誰か1人を「センター」などと祭り上げ,ヒエラルキーで固める造形ではない.皆が共に息づいている.,そうした多元的な時空間です.LISA(リサ)氏というアーティストの存在だけで,例えばタイ文化の存在を私たちに知らしめてくれました.K-POPの今日ではベトナムやフィリピンなどとの係わりも知られています.オーストラリアやニュージーランドといった地域にも例えば韓国の血を受け継ぐ人々が生きている,そうしたことも韓国の人々はもちろん,地球上の人々に刻印してくれました.そう,世界はこうした多様な人々が多元的に生き,暮らしている.BLACKPINKはそうした〈多元主義〉をアートの世界でまさに象徴的に実践してきたのです.この点でYGエンターテインメントという企画社(日本語では事務所と読んでいますが,韓国語式に"기획사=企画社"がふさわしいですね)は1グループの"企画社=企画者기획자"に留まらず,〈多元主義〉を最前衛で実践する文化の"企画社=企画者"でもあったのです.

●"APT."は〈多元主義〉の象徴的な作品
この"APT."もまた,そうした〈多元主義〉の象徴的な作品です.ROSÉ氏のみならず,ハワイ生まれのBruno Mars氏自体がいわゆる「○○人」といったレッテル貼りでは語り得ないような,文字通りマルチ・エスニック,多元主義的な存在です.

"APT."は〈複言語主義〉の勝利
言語の面に着目するなら,"APT."は文字通り〈複言語主義〉(plurilingualism.복수언어주의)の勝利です.英語にも日本語にもない,韓国語の"아파트"[アパトゥ]という外来語.語源は日本語の「アパート」同様,英語からの外来語です.でも指している対象はそれぞれ異なって,韓国語では「窓の下には神田川」のような「アパート」の印象ではなく,日本語で言う「マンション」に近いものです."아파트"[apʰatʰɯ][アパトゥ]には激音と呼ばれる子音/p/と/t/が現れています./p/でしたら両唇を話す際に,激しい〈いき〉が口から出て来る子音です./t/なら,上あごに着いている舌を離す際に〈いき〉がびゅっと出ます.語末は唇を日本語東京方言よりもさらに平らにする「ウ」という母音がついています.この母音は英語にも日本語にもないものです./p/や/t/は発音器官を放してできる音なので音声学では「破裂音」と呼ばれます.ROSÉ氏の発音からは若干の摩擦を交えた,日本語の「破擦音」と呼ばれる[tsu][ツ]の子音に似た音が聞こえます.日本語母語話者には[アパトゥ]よりも[アパツ]と聞くかたもおられるでしょう.いずれにせよ,この"아파트"[apʰatʰɯ][アパトゥ]は,英語にもないし,日本語やその他の言語でもなかなか見出しにくい組み合わせの音から造形されている単語なのです.韓国語の非母語話者(≠外国人)であっても,「アパトゥ」の意味は小さな謎として残したまま,馴染みの薄い言語音の刺激を愉しむことができます.こうした韓国語における外来語と,その外来語のふるさとである英語の歌詞の双方を生かして詩が,つまり歌詞が造られています.言語の音に,〈ことば性〉という,ことばそのものに着目した詩造りとなっています.決定的なことには,この際に,韓国語も英語も,どちらが主で,従という,主従関係がないのです.片方の言語が主で,付随的に他の言語が入れているわけではありません.いずれをも生かし,両言語が息づいている.これが〈複言語主義〉なのです.お解りのように,〈複言語主義〉とは,〈多元主義〉の言語的な現れであると言えます.

*既に在る言語圏に新しい言語が登場するとき,近代以降では概ね既存の言語を排斥する,言語帝国主義的なありようが主でした.先住民の言語を駆逐したアメリカの英語帝国主義や,アイヌ語や琉球諸語を抑圧してきた日本語帝国主義はその典型です.上に述べた複言語主義はそうしたありようとは決定的に異なるものです.作品内部で言語に主従をつけず,双方を生かしているわけです.なお,新しく生まれた言語の複言語主義としてはエスペラント(esperanto)という言語の来し方,そして現在が注目されます.

冒頭に述べた〈変化〉とは,作品作りにおける〈多元主義〉の動的な現れなのです.そうした意味で"APT."はK-POPの王道中の王道,その頂点が幸せを結んでいると言えます.

●K-POPは音楽の枠をはるかに超え,多元的な〈Kアート〉となった
K-POPは音楽の枠をはるかに超え,MVを始め,アートとしてその表現様式は日々劇的な進化を続けています.のみならず,その存在のありかた,存在様式もまた,20世紀にはなかった,全く新しい存在様式を示しています.さらにアートの私的所有のありかたさえも完全に変革してしまっています.
"APT."が公開されるやいなや,地球上が劇場と化しています.掌の中のスマートフォンでさえも.人々はMVに感嘆する動画を投稿し,歌詞を解析してネット上に上げ,共に踊る動画を共にし,ある人は歌い,またある人はギターを弾き,あるいはヴァイオリンで奏でています.それらの数も膨大です.作品をこうして共にするありようは,20世紀まで地球上に存在しなかったアートのありようです.それを『K-POP原論』では〈Kアート〉と呼んでいます.もちろんこの〈K〉は狭く排他的な「韓国の」といった意味ではありません.あらゆる異質なものを大切にかき抱く,〈多元的なK〉なのです.

*私たちはこうしたアートを新たに位置づけ直さねばなりません.『K-POP原論』はそのささやかな試みです.

*韓国の通信社,新聞社などのインタビュー記事もご覧いただければ,幸いに存じます.
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