清末の不死身 第四章
1885年2月、朝廷は南洋艦隊の"開済"号など5艘の戦艦を封鎖された台湾救出のために派遣した。結果、南洋艦隊とフランスのシベリア艦隊が真っ向衝突した。
南洋艦隊は本来艦隊としてのものではなく、
この5艘は寄せ集めであり、そもそもフランスの相手などではなく、北に向かって走りさえすればよいくらいのものであった。
その中に比較的スピードが遅い2艘の戦艦が
仏軍に包囲されたのち、放水して沈み、残された3艘は一路北に向かって走り、鎮海に着いた。
フランス艦隊も3艘の後を追い、鎮海までやって来た。
3月1日、フランス艦隊は1艘の戦艦を鎮海付近に派遣し、鎮海の要塞を偵察したところ、清軍に大砲を撃たれて退き、鎮海保衛戦はこれによって開始された。
フランスシベリア艦隊司令官クールベ中将は非常に高慢かつ傲慢な人で、馬江海戦中、彼はとても短い間に福建海軍に非常に大きな打撃を与えた。これによりクールベは極度にのさばり、彼の視界においては、鎮海の要塞はないもの同様だった。
クールベの鶴の一声で、4艘のフランス艦隊は一気に鎮海要塞に押し寄せ、砲撃の準備をし、上陸。寧波を直に奪った。
しかし今回のストーリー、彼が想定していたものではなかった。
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