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1885年2月、朝廷は南洋艦隊の"開済"号など5艘の戦艦を封鎖された台湾救出のために派遣した。結果、南洋艦隊とフランスのシベリア艦隊が真っ向衝突した。 南洋艦隊は本来艦隊としてのものではなく、 この5艘は寄せ集めであり、そもそもフランスの相手などではなく、北に向かって走りさえすればよいくらいのものであった。 その中に比較的スピードが遅い2艘の戦艦が 仏軍に包囲されたのち、放水して沈み、残された3艘は一路北に向かって走り、鎮海に着いた。 フランス艦隊も3艘の後を追い、鎮
その年、アヘン戦争が終結し、イギリスは 定海を返還したものの、依然として清政府に協議の調印を迫った- 清政府は定海を他国に譲り渡すことなど出来なかったが、もし他国が定海を占領するようなことがあれば、イギリスは出兵を伴う干渉を行うと言うものだった。 これは本来屈辱的な協議だが、薛福成が利用できる道具でもあった。 薛福成はすぐさま駐寧波イギリス大使を訪ね、イギリスにこの協議の遵守を求めた。 イギリス国内世論は、フランスが中国東南沿岸を侵略し、イギリスの商業利益に損害を与えて
第一章 清という時代はとても面白い時代である。 科挙の試験に合格する必要もなければ 進士(科挙の試験に合格した人)出身である必要もなく、さまざまな名声を得る機会が得られる。 例えば康熙時代の名臣成龍はただの副榜①出身で、"科挙の補欠"という身分でありながら 最終的には役人から両江総督にまでなった。 薛福成も副榜という功名がありながら挙人②にさえ合格していない。 薛福成は若い頃、功名を取りたいと考えていたが、当時は太平天国運動と捻軍③の真最中。 彼は太平軍に捕まり、あやうく
この1年で清政府とフランスの戦争は全面的に 拡大した。 フランスは海軍の優先を武器に中国の東南沿岸を攻撃し続け、東南沿岸の海防を早急に強化した。 李鴻章の推薦のもと、薛福成は浙江省寧紹台道に任命され、寧波、紹興、台州の3府の海防を担った。 今回は候補ではなく、実務の幹部地位だった。 この1年で、46歳の薛福成はついに正真正銘の役人になったのだ。 彼は興奮して止まず、まずは北京に恩を感謝し、すぐさま浙江省に赴いた。 興奮が興奮を呼び、しかし圧力も同様に巨大化した。フランスの