見出し画像

5月

夜の映画まで時間があったから、家で「彼女がその名を知らない鳥たち」を観る。かなしくて、かなしくて、とにかくかなしい気持ちになった。十和子がかなしくてさみしかった。陣治の嘘みたいにまっすぐな愛はグロテスクだなと思ったけど、登場人物みんなの愚かな愛がもはや滑稽であり悲しくもあった。なんで十和子を見て寂しいと思ったんだろう、と考えてみると、たぶん私にもわかる感情があったからだと思った。とてつもなく大きな愛情を目の前にした時、それからどうしても逃げ出したくなる時がある。
体調も気持ちもやばいまま、茶沢通りをブラブラ歩いて映画館へ。「悪は存在しない」を観た。自然というものが、自分にとって身近じゃないせいか、切り離せないし切り離してはいけないものなのに、どこか知らない世界をみているようだった。水は低いところに流れる。物事はとてもシンプルなのかもしれない。

行き慣れたルートで池袋。俺たちの庭であり地元のブクロ。休日に、特に買うものもないけどショッピングモールを一生ウロウロする遊び方は結局小学生のときから変わっていなくてうれしくなる。どんどん変化を遂げていく友達の姿がまぶしい。少し前に、"毎日考え事していると、その分毎日考えが変わっていくことを身をもって体感している。人間ってすごい"というような発言をしていてそれがずっと印象的だった。最近元気なんだよね、と言う友達。それに尽きるし、それだけがわたしもほんとうにうれしい。友達のそんな発言を聞いて、わたしもそれに引き上げられるように元気になっていく実感があってそれが最近の発見だった。基本的に自己解決が必要な性格なのに、友達に影響されて元気になるという現象がまさか起こるとは思わなかった。これってすごく稀有なことじゃない?ありがた、かけがえなッッ、、とか思いながら散財して帰路。最近そこそこ元気。

神保町。東京5年目、中央線を飛び出して、ついに飲みエリアを神保町まで広げた。友達が最近聴いたラジオで話されていた、絵で物事を捉える、ビジュアルシンカーの話がとてもおもしろかった。一つの事象に対して、友達は質感で捉えるらしいと聞いて、自分はめちゃくちゃ言語人間なのかもしれないと思った。何かの感情に対してわたしは脳内にノートの罫線が浮かんでいて、そこに左上からぎっしり言葉を詰めていくイメージだった。たしかに、昔から気持ちを言葉としてアウトプットできないとすごくストレスを感じていた。きっと絵を描く人や写真を撮る人は言葉が必要ないのかもしれないと思うと、うらやましくなった。
自分のことが嫌になって帰り道に1人で泣いた話を聞いて、わたしも泣き出してしまいそうな気持ちになった。自己嫌悪で流す涙ほどかなしいものはない。1人で泣いてる友達の姿を思い浮かべただけでとてつもなくかなしい。でもわかるの、その涙。自分のことを素直に許して、認めてあげることができたら、どれだけいいだろう。

ケンタッキーの向かい側にあるジムで、ダンス?エアロビ?なのか、なんのジャンルかわからない動きをしている集団を眺めている。自分が一生やらなそうな動きだけど、踊っている人全員が楽しそうで最高。
最近のこと、ズラっと書いてみたけど、書きたかったこと何ひとつ書けていない気がする。書けないと焦る。自分にやさしくいたいし、できるだけ毎日元気でいたいし、雨は降らなくていい。上半期終了まであと少し。

いいなと思ったら応援しよう!