ばらばらの記録
昼間に集合して友達と気になっていた展示を2つ見てまわった。夏っぽいこと、みたいなものはもうあまりしていないしそういうことにさほど興味みもないけれど、夏やすみだね〜と言い合えることはなんかうれしい。今年の夏はノースリーブの服を着ることを目標にしていて、それを達成することができた。今まで着れなかった理由も、もはやもうよくわからないけれど、それができたことは自分の中で少し、だけど大きな変化だったのかもしれない。着たいと思う服を着ることすらも自分に許していなかったんだと思う。私を縛る呪いみたいなものは、自分の性格のせいだと思い込んでいたけど、それは社会の構造自体に原因があったりすることを知ったりしていく中で、徐々に自分を解放できているのかもしれない。知識や教養は今の自分も過去の自分も肯定してくれる。
夜に高いバーでカクテルを飲みながら、ガールズトークを繰り広げた夏やすみみたいな1日。
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どう考えても生理というものと向こう何十年も付き合っていかなければならないことがしんどい!と思う。ただ下腹部に鈍い痛みを感じるという現象が起こっているだけなのに、かなしみや情けなさみたいな感情がつきまとうのはなぜだろう。今は自分である程度自由にスケジュールを組めたりするけど、小中高に通っていた頃はどうしてたっけ。
女に生まれてこなければよかったとか、それ自体を理不尽だとか思ったりはもうしないけど、そこにある得体のしれないかなしみみたいなきもちはなんなんだろう。罪悪感ともちがうけど、ぽつんとかなしい。
まだ試してない対策にチャレンジしようと思う。少しでも苦しまずに生きたい、自分のからだのままで。
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行ったことがないガラガラのファミレスに行った。その日、友達の話していたこと、そのときの目とか、窓から眺めてた電車とか空。どうしたら苦しくないかとかしあわせかとか、わからないことだらけだと思った。突然(あるいは無意識・悪意なく)傷つけてしまったり、傷つけられたりする。でも傷つけられたことはなかったことにしない。いつでも正解に向かっていけるわけじゃない。正解というフォーマットに当てはまらない感情をいくつも知っている。今起こっていることは、今だからぜんぜんわからない。だから過去にならなきゃつかめない。
昨日、「料理には一つも無駄なものはなくて、パスタに乗っているミントとかもそれ込みで料理なんだって!」と友達が話してた。私たちの人生だってむだなもの、ひとつもないよ。ないって私は言い続けたい。それ聞きながらそう思った。パンケーキの上でぱちぱち光る花火を見て、今年初めて花火見たかもって思った。好きな人たちがみんな傷つかないためにどうしたらいいのか、最近本気でそういうことを考え続けている。私は本気だよ。どうしたってきれいごとみたいな感じになってしまうのだけど、自分の中から確かに、ふつふつとそういう気持ちが湧いてくるのが分かる。夏はもう終わりそう。
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最近考えていること、友達から来る連絡がうれしかったり、会って話したことが楽しかったり、みんなが生活をしていると感じられること。去年くらいかぐるぐる考えていたこと、それは好きとか、愛とか、情みたいなものとか、信頼とか、執着とか、男女とか、家族とか、過去とか、未来とか、婚姻制度とか、漠然とした寂しさとか、不安とかそういうことぜんぶ、いったん置いといて大切にしたいものがあるような気がしている。友達と他愛のないことを話しながら歩いた道とか、夜中にSNSを開いたらちょうど誰かが投稿していて、この人も数分前に小さい液晶画面に向かって文字を打っていたのかなとか、電車の中で名前も知らない誰かと言葉も交わさずに隣に座って1日が終わる街を窓から眺めたり、もう会わなくなったあの人も同じ蒸し暑い夜をどこか生きているのかなとか。不条理なことだらけの世界で、無気力になっていろんなことを諦めそうになるときもあるけれど。それでも好きな人みんなと、そしてこれから出会うかもしれない誰かと、ゆるやかに連帯して助け合っていけば、これからなんとかやっていけるのではないかとここ最近ふと思ったりした。だいぶ遠回りしたし、これからもこういう気持ちが揺るがされるような出来事がいくつも起きると思うけど、何度でもここへ、元いた場所へ、自分が自分で信頼できているわたしのいちばんつよくて素直でやわらかいところへ、かえってこれたらいいなと思う。