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「◯◯らしい」…という罠
何かの拍子に周囲から「らしさ」を求められると、いつも「どうして?」と思ってしまいます。
この「どうして?」は、疑問ではなく反発、です。
最近、トミナガハルキ(@asobodesign)さんがこんなツイートを書いていらっしゃいました:
まさにこれなんです。
「らしい」という縛り。呪い。
でも、トミナガさんがツイートされているように、私も言葉狩りをしたいとは思っていません。
言葉そのものより、その使われ方に注意が必要だと感じています。
***
「らしい」で括ってしまいたくなる気持ちは、わからなくはないです。
1人1人を「個人」として見るのは、結構エネルギーが必要ですし、その人に対してよほど興味があるとか好意を抱いているというのでもない限り、毎回相手を「正面から見る(=理解しようとする)」のは正直なところしんどいです。
というか…
…はっきり言って、
面倒くさい。
だから、適当なところで括ってしまって、特定の「らしい」の引き出しに、その人を入れてしまうんです。
だって、その方が早くて楽ですから…
「らしさ」って、そもそも何なの?
一般的に言う「◯◯らしい」は、大雑把というか抽象的なことがとても多くて、「らしさ」って、特定の共同体の中でそこの都合に合うように作り上げられたイメージ操作(または洗脳)なんじゃないか、とさえ思います。
「こうあるべき(=枠からはみ出るな)」
「こうあって欲しい(=その方が扱いやすい)」
ひねくれた捉え方かもしれませんが、そんな影の声(副音声)が聞こえてくる気がします。
そんな「らしい」を使って圧力をかけたり、それをまるで美徳であるかのごとく宣伝していたり。
でもこれって…
誰にとっての「都合」なの?
人はみんなユニーク(独自・特別)なのに、「いつ」「誰が」「どうして」「何のために」決めたかもわからない「◯◯らしさ」というものに嵌められて、それに従ってしまったら、『自分』はどこに行ってしまうんでしょう?
そうは言っても「周りは自分を正しく評価すべきだ」と思うこと自体が傲慢な気もするし、周りの人が自分を「正しく評価」したり「好意的な解釈」をする義務も責任もない、とも思っています。
大事なのは、周りから半ば強制的に当てはめられる型としての「らしさ」なのか、自分から発信していく表現方法としての「らしさ」なのか、という区別ではないでしょうか。
「らしい」は呪いにもなれば、味方にもなる。
…そう思います。
***
長い海外生活の中で「日本人らしいね」「日本人らしくないね」という言葉を、どれだけ聞いてきたかわかりません。それが褒め言葉であったとしても、あまり良い気持ちはしません。
私は「日本に生まれて育った『◯◯』という名前の個人」であって、
「『◯◯』という名前がついている日本人」ではありません。
望むらくは「私」という人間を見てほしいのであって、「日本人」を見てほしいのではないのです。
そんな風に普段から思っているせいか、誰かについて、自分なりにイメージを持っていても、私は「◯◯さんらしいね」とは、安易に言いたくないのです。
「らしい」はとても難しくて危険な表現。
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