【エッセイ】父のバーコード
自宅へ向かうエレベーターに残された香り。
「あぁ懐かしい…」
すると、一緒に乗り込んだ主人が、
「ポマード」と、ひと言。
この香りを、いやポマード自体を知っている人はどの位いるだろうか。
ポマードとは、粘り気の強い油で、リーゼントなどのヘアスタイルをキープしてくれるツヤ感たっぷりの男性整髪料。今もポマードは存在するが、私の知っているあの強い匂いを放つポマードを愛用している人は少ないかもしれない。
ところで、なぜポマードの香りが懐かしいかというと、学校の先生や私たち世代の多くの父親が使っていたからだ。もちろん私の父もその一人だ。
父はバーコードヘアだった。バーコードヘアは、ご存知の通りツルっとした部分を隠すためのスタイル。
彼の場合、左サイドの髪を長めに残し、その髪を左から右へ頭頂部を横断させる。真上から見ればまるでバーコードのよう。そして、そのバーコードを確固たるものとするために使われるのがポマード。このヘアスタイルを完成させるにはポマードが必要不可欠なのだ。
毎朝、時間をかけ丁寧に完成させるバーコードヘア。父は、ポマードの香りをプンプンさせ会社へと出かける。そして仕事から帰ると、一日の疲れを癒すため入浴をする。すると入浴後、ポマードはすっかり洗い流され、そこにバーコードはない。
代わりに、子猫のようなふわふわとしたアシメントリー風ヘアの父が出現する。そして、そのアシメントリーの主要部分を不造作に頭頂部へ戻すと、今度は猫毛ふわふわバーコードとなる。
そうなると、あんなにも懸命に覆い隠していた部分など気にも留めず、吞気に晩酌を始める。身も心もすっかり変身するのだ。
そんな父を見ていたずら心が騒ぐ。
彼の背後に忍び寄り、何かの拍子で猫毛ふわふわバーコードが定位置からスベリ落ちるタイミングを見計らう。そして、その瞬間が来たら露わになった部分をポンっと叩く。
驚き振り向く父、そこで一言。
「落ち武者~」
スベリ落ちたそれを定位置に戻しながら笑う父。
エレベーターでたまたま嗅いだポマードの香りで、この出来事を思い出した。
しかし、なぜ香りを嗅いだだけで思い出したのだろうか。
調べてみると、香りと記憶が結びつくその訳は私たちの脳の仕組みと関係があった。人間の五感の中でも、香りを感じる嗅覚だけが記憶をつかさどる海馬という脳の部位にほぼ直接的に信号を送ることができる。嗅覚からインプットされた情報は、喜怒哀楽をつかさどる大脳辺縁系という脳の部位へ信号を送り、そこにある海馬や扁桃核が反応を起こす。
海馬は記憶の保管庫のような役割を持っているため、匂いを察知するとほぼ同時にその該当するファイルを見つけ出し、その時に感じた喜怒哀楽や好き嫌いの感情までもが呼び起こされるというのだ。
そのため、匂いを嗅いだ瞬間に『記憶』と『好き嫌いや喜怒哀楽の感情』がよみがえるというわけだ。
なるほど、私もポマードの香りで、父との楽しかった出来事を思い出したのだ。まさに、記憶と感情がセットになってよみがえった例だ。
ならば、これからは記憶しておきたいことがあれば香りをエッセンスとしてプラスすればよい。そうすれば、今後記憶することが難しくなっても覚えている可能性が高まる。
ただし、香りをプラスすることを記憶していられればの話だ。そうなると、まずそのことを記憶するための香りプラス作業をしなければならない。そうしてはじめて、記憶しておきたいことと香りの結びつけがスタートできる。
なんだか考えただけで、非常にややこしい。やはりこういうことは、自然に香りと記憶がセットされるほうがよさそうだ。
【追伸】
父とのエピソードを思い出して思ったことがある。父のバーコードが健在だった頃では無理だろうが、今ならドローンでも使えば父のバーコードもワンチャン読み取れるのではないだろうか。読み込んだ情報にバーコード暦○○年やハゲ頭を叩く失礼な娘でも可愛いなど、私が知り得ない父の情報があれば面白い。
まぁ、仮に今情報を読み取ることができたとしても、時すでに遅しではあるが。