【エッセイ】ぴんころは私の理想
「お母さん、駅まで送って~」
「忘れ物した、持ってきて~」
「学校、間に合わない。送って~」
「雷が鳴ってて、雨も降ってる。迎えに来て~」など……
生まれてから自動車免許を取得するまで、何なら自分の車を購入するまで頼まれればどこまでも送りに行ったし、呼ばれればどこへでも迎えに行った。予定したものから急遽頼まれたものまで、快く引き受けた(あっ、快くではなく多少ブツブツ言いながらの日も)
とにかく、子どもが三人ともなれば良くやったと我ながら思う。しかし子供たちときたら、こちらがお願いする時は「また?」だの「面倒くさい」だの、平気で「やっぱりいいや」と私に言わせるのだ。
自分がしたことは覚えていても、してもらったことは忘れてしまうのか。
まぁ、若い時は親のことなんて眼中にないほど自分のことで手一杯。それもわかる。でも、こちらは事前にお伺いを立て、承諾を得て送迎してもらっている。全く落ち度はない。
なのに、なんだあの面倒くさそうな態度や不機嫌な言動は。もうそうなると、送迎車内の嫌な空気を吸いながら『あぁ、こんなことならお金払ってタクシーに乗れば良かった』と後悔する。楽しいはずのお出かけも台無しだ。
それで思った。老後についてだ。
年老いても、夫婦で支え合えば何とか生きていけそうだ。どちらかが病気にでもならなければ。しかし、どちらかが病気や又は先立つことになった時はどうだろうか。きっと子供たちとの同居を考えなければならない。
しかし、車での送迎だけでこの調子なのに同居なんかできるだろうか。しかも、その頃には私も筋金入りの厄介者となっているはず。そんな私を快く引き受けるだろうか。
それを考えた時、気づいた。
もし一人になった時のために準備をしなければと。
①健康でいるために
・毎年欠かさず健康診断
・食事の管理
・体力の向上
・趣味を楽しむ
②自立した生活をするために
・仕事の継続
・ネットでの情報収集能力UP
・公共交通機関等の把握
・緊急連絡網の作成
③自立生活に限界を感じる一歩手前には
・ケアマネージャーへ相談
・老人ホームの選定
④素敵な老後にするために
・貯蓄
・ぴんころ地蔵尊の参拝 などなど。
(ぴんころ地蔵尊についてはこちら)
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今思い付いただけでもこんなにある。
そして厚生労働省でも、人生100年時代構想会議を行っている。これは、人生100年時代を見据えた経済社会システムを創り上げるための政策のグランドデザインを検討する会議。その中で「ある海外の研究では、2007年に日本で生まれた子供の半数が107歳より長く生きると推計されており、日本は健康寿命が世界一の長寿社会を迎えている」と報告されている。
私は2007年生まれではないが長生きしそうな気がする。107歳とまではいかないが100歳ぐらいはいけそうだ。だったら尚更、長かった人生の最後に「幸せだった」と言いたい。その言葉を残すためにも、周りの人に迷惑をかけずに生きるための準備を始めなくてはならない。
やっと子育てが終わり、今後はのんびりライフを!と思っていたが、どうやらそれは夢のまた夢になりそうだ。
長生きはおめでたいことだが、その道のりは簡単ではなさそうだ。
【追伸】
私の理想とする人生の最後は「ぴんころ」だ。ぴんぴんと元気に天寿を全うし、ころりと大往生をとげられるならば、100歳と言わず300歳まで生きてたっていい。私が300歳まで生きる時代が来れば、私の子供たち家族は何歳まで生きられるだろうか。300歳を超えて500歳までか。
もしそれが現実となれば、また別のエッセイが書けそうだ。
【おっと、私は何歳までエッセイを書くつもりなのやら(笑)】