「写真」は終わるのだろうか?
凄く久しぶりに書きますね。今までも色んな事柄について下書きを書いては消しを繰り返していたのですが、今日は珍しく時間ができたので最近ずっと考えていたことについて書いていきたいと思います。バッと書いてバッとあげるの大事ですね。
今回の記事を書くきっかけになったのは下記のニュースがきっかけでした。
若手の写真家の登竜門として長い間開催されていた1_WALLが終了するとのこと。寂しいですね。同じく昨年度で終わったCanonの写真新世紀と併せて、私が制作を始めた頃(10年前)に目標としていた「写真」が終わっていくのかもなと感じています。
他にも様々な点で終わりを感じておりますが、それだけで一投稿分の文章量になるので早速本題へ。
今回のタイトルの「写真」が終わるとは、そのコンテンツが無くなるということではありません。
上記のガーディアン・ガーデンのリンク先から飛べるプレスリリースの下記の一文が、これからの写真なのではないかと考えています。
『(中略)今後につきましては、これまでも大切にしてきたフラットでオープンな審査・講評、個展開催機会の提供などは変えず、より幅広い表現に対して、支援するコンペティションへと進化する予定です。(中略)』
私は特に『より幅広い表現』という言葉に対し、最近考えていた現在の写真の問題点が詰まっている気がしました。それは日本ではあまりにも長い間『写真』というものがある層で不動のものになっていたのではないか、という点です。
ここでひとつお聞きしたいのですが、皆様は写真を展示している、と聞くとどのようにイメージされますか?
写真をマットに入れて額装した物をピクチャーレールで吊り下げたり、バライタ紙を板に貼ったり、そのまま釘や鋲で打ち付けたり、etc.....。いろんな方法がありますが、写真展を見に行く方であればそのような「オーソドックスな見せ方」が存在していることはご存知かと思います。実際、私もそうやって展示することが多いです。
しかし、最近はそれだけが正解ではないのかな、という気持ちが強くなってきました。「オーソドックスな見せ方」は決して間違いではないのですが(「オーソドックスな見せ方」も可能な力量を持っていないとこれから記載する話も下手の横好きとなってしまうので必須かと)、海外のアーティストや最近の日本の写真家の作品を見るとそれだけでは勿体無い、もっと広く「写真」を扱った方が良いのでは?と思うことが増えてきました。
わかりづらいのでざっくばらんに書くと、「オーソドックスな見せ方」は基本的にその写真(or写真展)の中の表象≒主題≒サブジェクトを見せる展示方法です。根本的には写真上に描写されているものが重要な方法です。もちろん写真の展示方法や大きさ、作品のステートメント、また複数枚でしたらその連なりなどによって表現を操ることができますが、基本的にはその表象の強弱や逆転といったもののコントロール程度の範囲に収まるでしょう。日本の写真作家業界では、個人的にこの方法論の信仰が近年までずっと続いているように感じます。
そこで、写真を用いた上で「より幅広い表現」をするにはどうすれば良いでしょうか?
私が考えるに既に何名もの写真家がそれを実行に移しており、有名どころでは海外のヴォルフガング・ティルマンスやトーマス・ルフ、日本だと横田大輔などがそれに当たると考えております。彼らは写真そのもの≒媒体≒オブジェクトをも作品内で扱います。彼らの共通点としては写真に描写されているものだけではなく、「写真」の物質的な性質を理解した上で、それを作品に活かすものが多く、それによって価値観を揺さぶりにくるものが多い印象です。詳しくはもっと専門の方が書いてある記事やサイト、または写真集や展示を見るのが一番ためになるので興味がある方は是非調べてみてください。作品だけを見ると取っ付きづらく感じるかもしれませんが、彼らは写真の構造や写真史、常識や価値観など様々なリサーチをした上で作品を作られています。若干の前提知識や教養は必要かもしれませんがそれは世界基準では当たり前のことですし、多分photographyの一般的な翻訳が光画ではなく写真になってしまった日本だからこそ、それらの作品は新鮮に映ることでしょう。調べてみると作品を解説されている方も多いので、それらを参照すると大分わかりやすくなるはずです。
もちろん前者の作品にも後者の要素は少なからず含まれていますし、後者の作品にも前者の要素が含まれています。これは0か100かという問題ではなく、そもそも対比ではないので勘違いはなさらぬようご注意を。どの要素が含まれるかどうか、鑑賞者がそれを受け取れるかどうかです。
個人的には今まで「オーソドックスな見せ方」をしてきた人にこそ、新しい表現をしてほしいと思っています。なぜなら「オーソドックスな見せ方」が上手い人は限られたルールの中で上手く表現できた人、また写真そのものの性質をよくわかっている人なのです。且つそのルールの中で何年も第一線でやってきた人がそのルールの外側でチャレンジしていただけたら、もうとんでもないことになると私は思っています。長年やってきたからこそ変えれない部分もあるでしょうが。
写真はあくまでメディウム、媒体です。作品には作者の気持ちがそのまま伝わるなんてことはあり得ません。その材質でしたり、セレクト、大きさ、色彩、連なり、表象、展示する空間やメディアなど様々なことが表現する上で選択できます。もちろんこれまでのオーソドックスな写真表現も残ります。タイトルで「『写真』は終わるのだろうか?」という問いを出しましたが、残るものもあれば時代に合わせて変化していくものもあると個人的には考えております。なんなら「写真」ではなく「視覚表現」に纏められるのも遠くない未来でしょう。これまでのように写真に表象されていることや物語に偏りすぎないよう、物質的な側面などと上手にバランスをとって表現を追い求めていくことが必要なのではないでしょうか。
ボーッと考えていたらそれなりの長文になってしまいました。それほど推敲できておらず、また参照可能な資料が全然なく申し訳ないです。写真は技術が確立してから時間がそれほど経っておらず、他の美術分野に比べると大まかな流れを知るくらいでしたらそれほど大変ではない分野です。興味が出ましたら写真について調べてみると面白いと思います。閲覧ありがとうございました。
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