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「SUSHIはねえのか?じゃあ帰るわ」

秋平開店から3日後。

僕も拓も社長もヘロヘロになっていた。そりゃそうだ。朝から晩まで仕込み〜調理〜接客などなどなどなどを、日本とは全く勝手の違う“インド”という国で人類で初めて挑戦しているんだから、そりゃ疲れる。

水はなくなるわ、ガスはなくなるわ、停電なるわ、チキンは来ないわで、日本で普通にできることが全く進まない状況。なんとも刺激的だった。

さらに問題だったのはスタッフ。ミナまで言わずもがなの“雰囲気”で仕事ができるのは僕ら日本人同士の3人のみ。あと4人のインド人スタッフは、1から10までを×5言ってあげないと何にもできない。

なんとなくの感覚でやっている部分を言語化することは、非常に難しかったのを覚えている。しかも英語で、だ。

あ、ちなみに僕の英語レベルは中学一年生程度。Nice to meet you.くらいしか分からない。「enough」も出てこなかったくらいだ。

でも、黙っていては何もならない。僕はとにかく喋ったし、聞いた。喋らないとこの世界では生きていけないから、やるしかなかった。でもやっぱり勉強は性に合わないので、単語帳とかもあったけど、一回も見なかった。

そんなヘロヘロの状況の中、突然秋平にやってきた若者がいた。

空(そら)くんだ。

彼は当時、世界一周中。秋平のポストをみて手伝いに来てくれたのだ。確か、三日間くらいしかいなかったのだが、僕ら3人の記憶には、彼という存在が鮮明に刻まれている。

彼は秋平を、そしてインドで飲食店を運営する術を僕らよりは知らないはずだった。しかし「なんでも手伝いますよ」と、まるで社員かのようにめちゃくちゃ働いてくれた。

日本での居酒屋でのバイト経験を駆使し、インド人従業員を見事に操り、なおかつ自分自身もテキパキと業務をこなす。連日連夜の立ち仕事のせいで足がパンパンに腫れ上がり、立つことすらできなくなっていた僕は(弱っ)、彼の動きをレジカウンターに座りながらポケーっと見ることしかできなかった。

「あぁ、このまま彼がいてくれたらどんだけ楽なんだろう」と、何度思ったことか。

僕の基本的思考に「無駄な努力はしたくない」というものがある。これだけ見るとただのナマケモノにしか映らないが、勘違いしないでほしい。

ボクは、めちゃくちゃナマケモノである。

とにかく“無駄”だと思うことは排除したい。自分のこの先の人生において「全く必要ない」と感じたものは全力で避けて通りたいのだ。避けて通るための努力なら全力でやる、というなんとも矛盾しているような感覚を持っている。(でもこういう感覚の人いるよね?)

そんなこんなで、空に助けられ、怒涛の1週間を乗り切った僕らは、何にも代え難い結束のようなものが生まれていた。空のことを鮮明に覚えているのも、拓と今でも連絡を取り続けているのも、今でも秋元社長について来ているのも、この1週間があったからだと思う。

1週間を終え1日だけ店を休みにし、空の最終日はフェニックスモールでメキシコ料理を堪能した。そして空は次の目的地へ向けて旅立った。現在彼は、Ridiloverというところでインターンをしているという。彼の今後の人生も楽しみ。

最初の1ヶ月は秋元社長の在チェンナイの知り合いたちがご祝儀でたくさん来てくれた。週に2〜3回のペースで来てくれるお客さんがいたり、正直言って売り上げは順調だった。

「このままのペースだったら、2年で10店鋪もあながち夢物語じゃないな。」

その考えとは割と早めにお別れし、再び疑問符がつくことになる。1ヶ月を過ぎると、パタッと客の波が止まった。ご祝儀期間の終了である。飲食店の勝負はここからだ。

しかし、衝撃的事実として『秋平のある場所“Velachery”は日本人客的にめちゃくちゃ来にくい場所である。』ということを突きつけられた。日本人居住区からは離れているし、日系企業が多いエリアからも遠い。また、Chennaiイチひどいと言われる「魔の交差点」を通らないと秋平にまでたどり着けない。さらに、主編に住む現地人の所得はミドルから下の層。一杯1000円のラーメンなんて食べられる訳がなかった。

さらにさらに、RAMENの認知度の低さが客数減少に拍車をかけた。インド人が店に入ってきても

「SUSHIはねえのか?じゃあ帰るわ。」

「おいおい、それでどこがジャパニーズレストランなんだよ。」

と、ラーメンなんて目もくれずに帰られる始末。「SUSHIよりもRAMENの方が日本の若者は食ってるぞ!国民食なんだよ!週に一回は食うぞ!SUSHIなんて月に一回食うか食わないかだぜ?イマドキSUSHIなんて遅れてるよ!RAMENだよRAMEN!」

と、根も葉も無いことまで言って、なんとかインド人たちにラーメンを一杯頼んでもらう。4人で一杯を分け合う。“一杯のかけそば”ならぬ“一杯の鶏白湯”だ。

ラーメンが来るまで、箸の使い方をレクチャーしたり、麺は音を立ててすすって食べるんだよ、とかとか、いろいろ説明しなんとかRAMEN文化を広めようと、日々努力した。

徐々に徐々にではあるがインド人客の数が増えだし、少しばかりの希望の光が差し出した2015年12月1日。


大災害がチェンナイを襲った。



See you next No Joke...

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能條ジョー
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