FF10プレイ日記③&クリア後感想
前回まではこちら
15日め前半:各地巡り~レミアム寺院~対『シン』空中戦
・引き続きいろいろな場所を巡る。ドナさんに再会したり語ってもいいですかなおじさんにダイジェストで昔のスピラの顛末を聞いたりする。ここらへん日本三大怨霊を適度にブレンドした感じ
・砂漠でサボテンダーに遭遇したがクソミニゲームの匂いを感じて退散した
・サーチやパスワードで各所の宝箱を拾う。ビサイドのとかこれだったのか…崩落はしてなかったが謎のダーク召喚獣に占拠されてるからどっこいだな…
・失われた寺院に行ってベルザミーナさんと最後の修行をし、ついでにメーガス三姉妹を仲間にする。FF4のひとだっけ? かなりクセの強い性能をしてるらしい
・ベルザミーナさんとの戦いはだいたいアニマでなんとかなった。アニマ鬼強え! 逆らうやつら全員
・アニマとバハムートを対峙させるとちょうど親子みたいな体格比になるのは狙ってそう
・これで召喚獣は全部らしい。そういや結局水属性の召喚獣いなかったね まあ水がFF10自体のテーマだから色々混乱が起きそうではある
・ついでにユウナとワッカの最強武器も覚醒させる。ワッカその武器をどうやって脇に抱えてんの?
・オメガ遺跡は敵が鬼強いらしいのでエンカウント無しをつけて散策だけした。ファミコン時代のフラグが足りないときの宝箱みたいな仕様してんなここ
・おおむね行けるとこには行ったので満を持して『シン』に戦いを挑む。頑張って近付いたり近付かなかったりしたが遠隔で単に魔法連発してるほうが安牌だった
・最終的に好感度一番高いのはルールーさんらしい
・『シン』に飛び乗りコケラ戦をする。最強装備集めで召喚獣のOD技が限界突破してるのでいざというときの召喚獣ぶっぱが再び鬼強くなった
・『シン』が重力を操ることが明かされる。台風っぽいのもコケラがグラビデを連発するのも究極的な負の召喚士――ただ一方的に他人に来てくれるのを待つ存在――であることの伏線だったらしい。ゾンビといいグラビデといい、今回はFFお約束の魔法や状態異常を話と結びつけるのがうまい
15日め後半:『シン』内部~ラスト死ーモア戦~最終決戦~エンディング
・改めて『シン』内部に入る。敵が全員強くて硬い! アーリマンとキノコとレイスだけ出てきてくれ
・『シン』に取り込まれ、ウッキウキで自分用の階段やら舞台をこしらえて待ってる死ーモアに会う。いま忙しいんだって。そしてなんか………普通に弱かった! よりにもよってスクウェア風のミニゲームを身体に取り込んじゃうから…
・まあ本人的には「これから成り上がるし?」みたいなこと言ってるけど、なにか強いものと一体化できて安心した時点でシーモアにこれ以上モチベとかないんだよねえ多分。ただ夢を追ってるフリをしている
・さらに最深部に入る。よくわからないがブロックがガションガションしているがここは特にギミックとかじゃないらしい。最奥に行くと武蔵伝のタワーオブデスみたいなやつがあった。名前もほぼおんなじだ
・うぁぁぁ……ティ ティーダが最後のクソミニゲームを練り歩いてる じゃないよ!!! セーブ後のラストバトルまでの合間にクソミニゲーム挟まるのは流石に予想外だった。一体何の執念がここに謎の石集めゲームを生えさせたの?
・そんなわけでブラスカ究極召喚獣と戦う。クソ強かった。ワッカのアタックリールの3列目は放置してたら勝手に2Hitになる仕様のおかげでなんとか勝てたようなもの。あとはアニマのオラオララッシュ
・FF10の戦闘システムに敵の苛烈さも含めて概ね文句はないんだけど、このジェクト戦の石柱のアスピラ連発だけはどうにも褒めようがないな…ただの運ゲーだしルールーを戦闘に出す意味が皆無になっちゃった
・そしてエボン=ジュが取り憑いた召喚獣を次々眠らせていく。
・そして……エンディングになった
クリア後感想
FF10をゲームたらしめる「重力」
・めちゃくちゃ私見だけれど、FF7~FF10は開発側が「俺達は現実と区別がつかないものを作ってしまった」と本気で思っていて、それ故に「幻想と現実を隔てるもの」という物語を本気で出せてたんだろうな、と考えている
・7-9はそれでもキャラをデフォルメせざるを得ず、そのため「舞台の作り手側が吐いている嘘」について話をすることができたけれど、PS2でもはや地肌も見える、髪も揺れる、五本の指も別々に生々しく動く人物を描けてしまったときにその「意図的な嘘」をテーマにすることができなくなった。
・だからFF10はFF10を「ゲーム」たらしめる別のものについての話をしないといけなくなり――その一つが、「重力」だったんだろう。
・どれだけディテールを凝ろうと、ゲームキャラは「重力があるように」設定して動かしてやらなければ、画面の中を彷徨っているだけになる。ゆえに物語を動かす舞台装置である『シン』は重力であった。全てを引き寄せ、こっちに来てくれと希う召喚士。確かにゲームの……特にRPGのラスボスは、奇をてらっていなければそうなるだろう。彼らはラスボスであるがゆえに、所定の目標地点から動けず、こちらに来てくれと働きかけることしかできなくなる
漂流の物語
・重力である『シン』と対を為すため、主人公たちはしばしば「漂流」に晒されていた。
・中に浮かぶ水球の中でスポーツをするブリッツボールから始まり、ティーダは何度も海にさらわれ、夢をさまよい、どこに自分の「重力」があるのだろうと迷い続ける。
・ティーダに会う者はだいたいティーダを「漂流者」として扱い、ティーダと比較することで自分の足元、重力を実感していた。
・しかし実のところ、FF10のパーティメンバーは全員が漂流者だ。
・リュックたちアルベド族はただ茫漠と召喚士をさらっているだけだし、キマリは言うに及ばず、ワッカやルールー、ユウナたちも「エボンの教え」という重力で歩けているようでいて、その実はぐるぐると解決にならない旅路を流されていただけだった。まるで渦に巻き込まれているかのように。
・私たちはごく自然に「漂流」と「重力」を二項対立だと考えがちだが、その二つは絡み合い、偽装し合っている――ということをFF10は何度も語る。人間は他人の手によっていとも簡単に漂流させられるし、何も知らずに流れに沿っているだけのものが心の支えになることもある。
スピラでの死は、永遠に引き伸ばされる
・普遍的な死生観として、魂の存在を認め、その魂が死後も消えないとする場合――死は「漂流」か「重力」かどちらかになるだろう。あてどなく彷徨っているか、何らかの理由で縛り付けられているかを私たちは基本的に想定する。
・しかしスピラではそのどちらでもなく、どちらでもある。死人はごく普通に動き、話し、この世界を彷徨い――そして他人を絡め取る重力になる。アニマやマイカ、シーモアがそうしたように、他人を延々と迷わせる渦を発生させながら、それを確固たる足場だと信じさせて重しをつける。
・「善き死者」であるアーロンやベルザミーナも挙動は同じだ。彼らは死者であるがゆえに、他人を自由に解き放つことができない。ただ自分の渦に入ることによって、運動エネルギーが彼らに蓄えられることを願うだけだ。
・異界送りとは死者を消し去る術ではなく、ただ彼らの死の渦から抜け出るための方法に過ぎない。遠く離れて二度と会えなくなったとしても私たちは死者を思い続けるのだから。干渉できなくなって、「思い続ける」しかできなくなって――ようやくスピラの死者は薄められる。
・「ブラックホールに落ちたものは永遠に死に続ける」ってスペースロマン(あるいはコズミックホラー)めいた言説が流行った時期ってあったね。
FF10は、「想いの光」を奪う重力から抜け出るまでの物語
・FF10において、迷い、漂流し、わけのわからないまま生き続けることは悪とされていない。むしろ人はそういうものだ――と仏教じみた観念で世界全体を描こうとしている。
・FF10において明確に悪とされているものはただ一つ――「暗いあきらめ」だろう。
・人はみな漂流しながら重力で他人を絡め取り、同時に絡め取られる。だが、そのときに原義的な意味での「諦め」――周りを明らかにして見通すことができたなら、たとえ漂流しながら、重力に翻弄されながらでも進むことができる。FF10はその諦めと漂流を肯定している。
・しかし、そうするための視力、周りを明らかにするための思考の力――仏教でいう「光明」「智慧」を他人から奪ってしまう重力は、悪である。
・たとえば、エボンの教え。
・たとえば、アニマとなったシーモアの母親――二度と自分から離れがたくしてしまう強い力と死の重さ。
・ティーダを現世に縛り付けてしまう祈り子たちの夢の力。
・そしてエボン=ジュと『シン』。
・そうした重力は、本来ともに存在している世界のどこかを「幻想」にしてしまう。『シン』が存在しない世界をスピラの民のほとんどが幻想だと思っていたように。
・私たちの思考の光はたくさん溢れ出るようでいて、有限だし、強い力に簡単に絡め取られる。
・だから死者は、"たまに"思い出さないといけないし、召喚獣とは必ず別れなければならない。
・「永遠にこちらの召喚に応えてくれるもの」は、『シン』と同じなのだから。