FF8プレイ日記④&クリア後感想

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15日め(後半):アルティミシア城~ラストバトル~エンディング


・いきなり能力の一部(ほぼ全部)が封じられる。このやろう
・FF8でほぼ見なかったコテコテ城ダンジョンを攻略していく。このゲーム基本的にマップのどこが移動可能部分やイベント部分なのか全然見てわからないのでまあまあやりにくいが、時間の寄せ集めというテーマなのでギリ許せる。宝物庫の鍵になんの目印もないのは流石に許せない。武器庫の鍵はちゃんと光ってんじゃねーか!
・ボスもだいたい嫌がらせ…というか受け身姿勢のやつが多い。カトブレパスは見た目がかっこいいし単に雷が得意なだけなので好き
・3Dの羽ばたきモーションでずっと動きながらだと「ダ ー ク フ レ  ア」がシュール(見ずに倒してしまった)
・ディアボロスさん、やっぱり一部界隈では「みんなでワイワイ物理バトルしてるとこに割合ダメージとかマジねーよな」「あいつ呼ばないでおこうぜ、空気読まないし」とか言われてんのかな…
・アルティミシアのところについたのでバトルになる。リマスター前は「私が戦う面子を選んでやろう」と言ってくれたらしいが、リマスター版だとあそこらへんの台詞がけっこう変更されてるらしく前置きなしにパーティチェンジ攻撃を食らった
・要約すると「自分の時間をちゃんと生きられないと漠然と苦しいだけになるんだよバーカ!」と言ってるあたり、自分のつらみを言語化してしまったサイファーって感じがする
・クソ忙しいときにデフォ名のまま決定しただけだったので、「グリーヴァってなんだっけ…」ってしばらく考えてしまった。なんか奪いがいのない思い出で申し訳ない
・ショックウェーブパルサーであっさり全滅してしまった…と思いきや、そこで転生の炎が発動するロマンシングが来てなんとかなった。ありがとうフェニックス
・しかしいつまでも戦力外キャラが前線にいるのがしんどいので、キスティスさんにゼルをしばいてもらいさっさとリノアに来てもらう。ごめんねフェニックス、転生の炎を1人分無駄にして
・色々頑張って最終形態アルティミシア戦に突入する。ここにきてようやくリノアがウィッシュスターを使ってくれ…コスミックレイヴだこれ! どうして犬にV-MAXがあるんだよ
・アポカリプス鬼強え! 逆らうアルティミシアこれで全員ぶっ殺していこうぜ!
・撃破し、らんま1/2のOPっぽくなった後にスコールが過去の孤児院に飛ぶ。実際、ママ先生ってなんとなく参戦して離脱しただけでスコールの中でしっかりとしたけじめはついてないもんなあ
・ああ、「あなたの物語を終わらせなさい、どんな悲劇が始まるとしても」って…
・そして怒涛のムービーとエンディングに…すげえ長い。そりゃDISC4パンパンだ
・サイファーたちがしっかり笑えていて良かった。年を食うとなんとなくわかるが、めちゃくちゃ楽しい時間の中で過ごしてるときにふと「え、この時間ってここで行き止まりなの?」って気づいたときのダメージってキツいよな。そうなったら過去も全部行き止まりの方に押し付けて圧縮するしか維持する方法はなくなる。FF8はその一人ひとりに起こる時間圧縮の話でもあったし、サイファーの話でもあった
・オーディンが結局手助けしてくれることはなかった


クリア後感想


・とにかく"全てのプレイヤー"に対する重すぎるラブコールだなあ、というのがまずクリア直後の感想だった
・勝手な想像が多分に入るが、FF8の各シーンを見る限り「映像とゲームの垣根を越える」が一つの目標であったろうし、そうなれば当然「ゲームにはできて映像にはできないことは何か」と考えただろう。それはプレイヤーの存在、プレイヤーが主人公に働きかけられることだと。
・しかしそれは当然、次の疑問も生む。「プレイヤーがいることは、ほんとうにこの世界を美しくするのか?」という問いだ。プレイヤーが誰かを好き勝手に移動させ、ステータスや能力をバラバラに継ぎ接ぎし、ゲームに行き詰まったら放置して、やがてただセーブデータの残骸だけが残るのは「映像を超える世界を作った」と言えるだろうか。
・そしてそれは、同時にプレイヤーをもバラバラに分断する行為だ。ゲーム、いやそもそも娯楽とはプレイヤーの心の一部をセーブデータの中に閉じ込めて、プレイヤーを断片化させることに他ならないのではないか? という問いかけがFF8の根本にはある。要約するなら、"心の時間をズレさせる"ことはいいことなのか? という自問自答がこのゲームだ。
・このゲームの登場人物は、基本的に心の時間をズレさせたまま生きている。おねえちゃんやママ先生を引きずったままのスコールたち、楽しい時間から抜け出せないサイファー、彼らの戦いに明け暮れた時間からさらにズレたまま、追いかけざるを得ないリノア。そしてスコールの「過去形にされるのはゴメンだからな!」の台詞が象徴するとおり、そのズレには「時間の行き止まり」にいつか到達することへの恐怖が常に潜んでいる。
・ラグナパートはそれに対する緩和的なケアだ。ラグナパートが過去であることが明確になるにつれ、プレイヤーやスコールには少しずつ「じゃあ、今もいるかもな」という思考が生まれる。"時間の行き止まり"という概念の自己消化を促している
・さらに言うなら、スコールやサイファーを根本的に蝕んでいたのは「時間の行き止まりと空間の行き止まりは同じものである」という思い込みであるとも言える。空間的――人間関係や社会の枠組みも含め――なものに自分の心の一部を預ける行為と「そこで時間が行き止まりになる」という認識を同一化させていたから、スコールはとにかく依存被依存を拒絶しようとしていたし、サイファーは「夢を叶えるオレ」「風紀委員のオレたち」という空間を維持したまま別の枠組みに移ろうとした。
・FF8はその「時間の行き止まり」を少しずつ消化していく物語でもあったし、やはりそれも――ゲームそのものだ。ゲームは「最終目標を達成するまで行き止まりはない」という前提をゲームマスターとプレイヤーで共有するからこそ、ゲームたり得るのだから。ゲームに行き止まりはないし、それがあなたの心を永遠に千切って苦しめることもない、さあ一緒に楽しもう――そういうラブコールが最後には残る。


感想おまけ:例の説について


リノア=アルティミシア説というのがあるらしい。
まあそういう匂わせは割とあったし、そう取っても円環と円環から脱出する物語みたいな感じでまとまるなあ、という気はするけど、私は自分の感想としてはそうは思わなかった。
証拠不十分なのもあるけど、やっぱり何より引っかかるのは「イデア(=アルティミシア)がSeeDのことをよく知らずにスコールから引き出そうとしていた」というくだりだ。これはつまり、「スコールそのものより、スコールがSeeDであることこそが重大だ」と彼女が判断していることになる。
まあとやかく言ってもしょうがないし、こっからは私が勝手に想像した流れを書いていくだけにしよう。
・アルティミシアは、自分の時代で「魔女を倒す」という使命のあるらしいSeeDを知った。この時点でどれだけスコールたちの時代の情報があったかは不明。
・そして同時にアルティミシアは、魔女の力が強くなりすぎて「無」や「否定」そのものに自我を取られかけていた。これは戦闘時の台詞や城のクソ仕様から類推できる。
・ジャンクションマシーン・エルオーネを手がかりに過去へ向かう。動機はおそらく、自分を定義づけるなんらかの因果とか縁のようなものがSeeD設立時に存在すると思ったから。
・自分と同じ魔力のイデアに憑依するが、SeeDはすでに設立したあとだったのでよくわからなかった。SeeDが派遣されそうな騒動を画策し、SeeDの接触を待つ。チョロそうな……あるいは、リノアの匂いを感じ取ったサイファーを籠絡する。
・サイファーから「魔女の騎士」という概念を伝えられる。ここでアルティミシアはおそらく、「魔女である自分を追ってくれる存在」に憧憬を抱く。
・イデアの心に強く焼き付いていたからか、リノアを助けに来たからか、スコールに当たりをつける。スコールは知らないらしく空振りになる。この時点でアルティミシアは深く絶望し、同時にスコールが騎士として振る舞うリノアに対して強い憧憬をふたたび抱く。
・アルティミシアは時間圧縮を画策する(この時点か、虚無に支配された時点でもう思いついていたのかは不明)。何故か? ――すべての時間が圧縮され、自分ひとりの世界になれば、他のものは全て自分に追従する"騎士のようなもの"になるのだから。そしてリノアに憑依し、アデルの解放へと進む。
・撃破され、過去のママ先生に力を託す。「まだ、消えるわけには…」というのは自分の騎士に出会えていないから。
・アルティミシアは時間圧縮の影響下で死んだため、その死もまた混じり合った時間のなかにバラまかれる。時間の海に散骨されるようなもの
・時間圧縮の効果により、アルティミシアは「当事者でない」さまざまな状態で死ぬ。宇宙のリノアとして死んだり、スコールの記憶の消失として死んだり、「騎士が助けてくれなかった魔女」として少しずつ死に続ける。
・リノアの力によりスコールが生還したとき、アルティミシアは自分の憧憬を第三者視点で眺め――「自分が憧憬した風景に自分はいない」ことにより完全に死ぬ。

まとめると、「リノアが未来のアルティミシアのように見える映像」は「アルティミシアの憧憬の視点がゲームそのものに重ね合わされた」からじゃないかなあ、と私は思っている。

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