呟きもしなかった事たちへ_No.22(2021年4月号)

※コンセプトは創刊号をご確認ください。ぼーっとする文章が続きます。バックナンバーはこちら

パッと思いついて眼鏡を変えた。11年ぶりだと思う。今まで何となく買いに行くたびに「いやでも今の方が似合っているな」と心が折れていたのだが、何故か今回はうまくいった。何らかの力があったのかもしれない。

今月も、呟きもしなかった事たちへ。

スポンジ

食器用スポンジの替え時が分かっていない。

今や食器用洗剤はしっかり除菌までしてくれるので、「菌が繁殖してそうなのですぐに交換」とならない。フライパンは焦げ付かず、スポンジはそもそも傷まない。僕が使っているのは魚の形をしていて片面が柔らかく片面が固いヤツだが、この固い面があるせいかへたって来てもそれなりの張りを維持するし、もとより夫婦二人で多量に食器を使う訳でもないので、どうにもこうにも変えないまま2~3か月くらい経っていることがままある。どうももっと頻繁に、具体的にはひと月に1度くらい変えるべきなようなのだが、そんな事をしなくても実際困るわけではない。

正解が分かっていない。こういう「見えていない世間ずれ」、色々ありそうだよなと思う。

美人時計

という単語をTLで見かけた。そんなものもあったな!という素直な驚きが声に出た。

調べてみると2009年アプリリリースらしい。12年前。今でも法人・事業としては続いていて、美人時計で人気を得た人をインフルエンサーとして紹介する事業などもしているそうだ。僕自身は美人時計をインストールした事もないし、美人時計由来のインフルエンサーを見た事もない。

実態としてTwitterには相変わらず可愛い子の自撮りにいいねが押されまくる訳だけど、一方で「ビジュアル勝負で女性を全面的に推していき、以て美人というレーベルで出します!」と企業が言ったら批判も沸いてこよう昨今、苦戦してそうだなという気はする。社会もこの12年で随分変わった。

脳内でしゃべる

平田俊子の詩集やエッセイが好きなのだが、何が好きなのかよくわからないままでいる。好き勝手言っているのだが、言いたいだけ言っているという訳ではなく、どちらかと言うと勝手に言葉がこぼれてきている印象だ。

先日プープーテレビで林雄司が「テレビの旅番組とかでレポーターが目に見えたものを全て言葉にしてて、実際は番組以外でそんなことやってる人はいない」と言っていた。「お、こんなところに店がありますね」「すごい茂みだな…」とか、確かに言わない。が、あれを内省的に脳内で呟いている事はある。あれが好きなのだろう。「孤独のグルメ」のスキームを、散歩中でもテレビを見ていても、あらゆる事にやっていく事。そして(旅番組や孤独のグルメとは異なり)あらゆる事であらゆる瞬間にやっているせいで思考が取っ散らかっていく事。そういう、秩序だってない脳内活動が見たいのではないだろうか。

雑談しながらゲーム実況をしているVtuberの配信をだらだら流してしまうのもそういう事かもしれない。あれも思考が凄く取っ散らかっていて良い。それをながら見で摂取しているとこちらの思考もさらに取り散らかる。

視線

「踊ってみた」がちゃんと見れない。

ダンスが嫌いな訳じゃない。NHKでやるローザンヌは毎年見たり、ピナバウシュのDVD持っていたりする。アイドルのステージも何ら問題なく見れる。

「踊ってみた」はそれらを超えて、圧倒的に「こっちを見ている」。知り合いに投稿者がいたので聞いた見たところ、「踊ってみた」でバズる踊り方としてそういう指南もあるという。見すぎでは、と正直思う。恐らく僕は、踊りそのものではなく、こっちを見ている女性というものを直視できなくて「踊ってみた」を苦手にしているのだろう。

全然ちゃんと知らないが、イメージ的には韓流アイドル(女性の方)とかもそうなんじゃないかなという印象がある。Tik-Tokにおけるカワイイもそうか。そういえば美人時計もこちらを向いているものばかりだったかもしれない(ちゃんと見たことはないが)。

なんというか、あれらはいわゆる「グラビア写真」なのではないかと思う。「あなたを見ること」をメインにした、視線から始まる表現。断っておくと性的だと言っているのではない。これは想像してもらえばわかるが、実はいわゆる青年誌のグラビア写真は体を隠しても見れるものだが顔を隠すと魅力が減じる。ダンスは本来恐らく逆(とまでは言わないが、逆に近い)なのだが、踊ってみたも動画としての意味合いはグラビアと同じように「体を隠しても見れるものだが、顔を隠すと魅力が減じる」気がする。

失われた時を求めて

この回とかTwitterでもちょくちょく触れていた「店が忙しいせいで毎回角煮かけごはんの味が安定せず事実上日替わり丼と化す中華料理屋」、昨今はランチ時も忙しくなくなり、味が変わらなくなった。実はその結果この回辺りから牛かけラーメンを食べている。

先日も出社時に牛かけラーメンを食べていて、時が止まった。

メンマや青椒肉絲でよくある話だが、細切りタケノコにはたまに「先の柔らかい所を細く切った結果とても柔らかくふにゃふにゃした部分」がある。あれが子供の頃から好きで、亡き大叔母とよく行った思い出の中華料理屋では青椒肉絲をよく食べた。もちろんその部分だけが好きなわけではなく全部食べていたが、端の部分のふにゃふにゃが当たると嬉しかった。もう最後に行ったのも20年以上前の記憶である。その店ももうない。

牛かけラーメンを食べていて、不意にその味の「先の柔らかい所を細く切った結果とても柔らかくふにゃふにゃした部分」が口に入った。だがすぐには思い出せず、「あれ、何だかこれ食べたことあるな」と一呼吸おいた後、唐突にあの「張大千賓館」の様子が頭の中にフラッシュバックした。軒先の砂利を踏む音、小上がりに上がる時に触れるふちの木の手触り、大叔母が好んだ紹興酒に付いてきたザラメの味、鉄板から香る青椒肉絲の香り、よく分からない横書きの書道、ご主人の笑顔…何もかもがクリアに思い出された。記憶の洪水とはこういう事か、「失われた時を求めて」のマドレーヌはこういう事か!夢うつつで牛かけラーメンをすすっていたわけではないのだけれど、確かに牛かけラーメンを食べながら同時に高井戸にいたし、2021年と同時に1994年にもいた。一人であると同時に、大叔母や家族がいた。これか、これが「スワン家の方へ」か。

しかし「失われた時を求めて」の内容はここから全然フラッシュバックできないんだよな…いや仕方ないとは思うんだけど。回想の中で回想したりするので本当に頭に入らない。

電卓

電卓の話をしだすと、経理屋(あるいは簿記資格保持者)は長い。カシオかシャープか、「=」や「+」のサイズと位置、まぁこだわりが出る。「→」(と書いただけで叩かれそうだ。カシオは「▷」)の位置、その他…カスタマイズが出来る世界ではないが、みんな「愛機」がある。

在宅勤務中心生活から在宅と出勤が半々になりそうで、電卓をもう1台欲しくなった。今使っているものが10年以上前のもので、実はこれをもう1台買うのもヨドバシという訳にはいかずAmazonになった。消費税が10%と8%になったせいで、「税込」ボタンが2つに増えたからだ。同じシリーズでもこれによってボタン位置が変わったので、消費税が切り替わる前の古いモデルをわざわざ探した。

苦労もあって、10年前のものと完全に同じものの新品が手に入った。驚いたのはキーの固さだ。10年使ってきた方は、使い込まれ大分柔らかくなっている。こんなに違うのか…曲がりなりにも経理的な仕事を10年以上し続けてきた事を実感する。

なんか全然面白い事を書いてないな…。

電卓、2と3を交互に連打すると、ニョロニョロみたいな生き物がワーって右から左へ走っていくアニメーションみたいでかわいいのでやってほしい。だがこれは7セグ表記のものだけで携帯にアプリで入っている電卓はそうならないので悲しい。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。