白い鳥

1.灰の空

 不意に目覚めた。暗い意識がドロドロと体からはがれていくと、どうやら朝のようだった。日の光に目が痛むと同時に、背中に柔らかく重いものがへばりついているのが分かった。これが羽か。どうやら、白い鳥に食べられることなく、生き残ることが出来たようだ。

 チジー、だったと思う。とにかく誰かが教えてくれた。さなぎから抜け出ても、羽が乾くまでは飛べないのだと。だがチジーの言っていたことは意味がなかった。羽がへばりついているうちは、全身、わずかにも動くこともできないのだ。

 チジーと同じように飛べるのだろうか。あの灰色の空へ。とにかく羽が乾かなければ。羽さえ乾けば自分もまたチジーのように、子らに語りを行えるのだろうか。いや、そもそも自分は、昔のことを覚えているのだろうか?

 寒暖差が厳しいこの惑星は、四季のない安定した気候ではあるが、昼は上空に、夜は地上に強い風が吹く。昆虫達は成虫も幼虫も、地面に所々空いた穴倉に身をひそめなければ風にその身をさらわれ、命はないだろう。
 岩砂漠に苔類が生え、その間にイネ科の植物がぽつぽつと群生している。戦争の熱波にやられ、原生していた植物はほぼ残っていないはずだ。そのため、どこまで行っても、植物はこの二種類にほぼ限られる。

 生まれたときも、何も見えなかった。次第に灰色の地面と灰色の空が区別が出来る頃には、景色よりも腹が減っていて仕方がなかった。だがあの時はすぐに動くことが出来て、自分を包んでいた殻を食べたのだった。

 味の記憶はない。

 食べ終わったときは空はまだ灰色で、暗くなっていなかったが、オヤがやってきた。今思えば珍しいことだった。まだそれをオヤとは認識していなかったけど、黒いオヤは自分たちに食べ物をくれた。そうだ、自分「たち」だ。周りには自分と同じような子がいた。

 まだこの時も味の記憶はない。あのオヤはコケをくれたのか、ムギをくれたのか、今となってはわからない。

 そうして、初めての夜が訪れた。まだ白い鳥のことを知らなかったので、夜とは、真っ暗で、風の音以外何もない、ザラザラとした休みだった。まだオヤの話も聞ける程でもなかった。

 朝になると、体が温まると同時に、周りを見ることが出来るようになっていった。オヤたちは既に大半が飛び立っていた。周りには、さなぎ手前にまで大きくなった子もいた。大きくなるほど体は黒くなり、体の温まるのも早い。思い出す今ならわかるが、あの時は自分が一番のろまなのではないかと焦っていた。

 くぼ地を出ると、大きな子が歩いていく先も、それ以外のところにも、ところどころ穴の開いた地面に、コケがまだらに生えていた。遠くにムギの葉が見える。まずは近くのコケに近付き、かじる。旨いとも思わないが、コケを見ればかじる。コケをかじりながら歩き、穴の中で休む。そうして、暗くなり始める頃、オヤが落ちてきた。

 そのオヤはムギまで飛んでいくと、また戻ってきた。今思い出してみると、運が良い。しばらくして、オヤがお尻から食べ物を出してくれた。オヤからのエサは、抗えない。美味しそうな匂いがする。オヤに何も言わず食べ始めた。うう、ううまぁい。うまい。

 そのオヤは、自分のことをオヤになって世話をする二番目の子だと言った後、白い鳥のことを話し始めた。さなぎになる時、高い所に行きたくなるが、ムギを登ってはいけない。ムギは白い鳥に狙われやすいから、と。

 白い鳥はさなぎを食べるのだ、と。

2.白い花

 羽は乾きつつあった。もうしばらくすれば飛べるのだろう。あらためて自分がオヤになったことに驚いている。地面にやコケを踏み、くぼ地を上り下りできた力強い多くの足は消え、ムギよりも細く頼りない6本の足がある。今はまだ動かせないこの羽も、何も考えずに動かせるようになるのだろうか。

 何もかもが今までと違う。今は、覚えていることを出来るだけ思い出そう。

 次の日の朝になり、オヤは飛び立っていった。穴から出て、コケをかじり始める。どこに向かっても変わらないのだが、割と近くにムギが生えているので、それを目指すことにした。オヤは食べ物をくれる。オヤはムギを食べる。ムギに近い事はよいことだ。

 歩き、コケをかじる。ムギが近づいてくる。

 その日はそのまま夜が来た。くぼ地に入って待ってみたが、オヤは来なかった。

 朝が来て、また動こうとしたが、どうにも体が動かしにくい。力を入れてそれでも動こうとすると、不意に体の一部が裂け、動きが楽になった。自分を覆っていたものが後ろに落ちていく。白く、薄い膜だ。いつの間にこんなものをまとっていたのだろう。腹が減った。歩き、コケをかじる。以前よりコケが小さく感じられた。

 そうして夜がきて、オヤがきた。自分が女であると言うオヤは、ムギをかじってきていなかった。食べ物はない。

 オヤによると、自分はまだ黒くなっていない、幼い子供だという。朝に体が裂けた話をすると、それを繰り返していくうちに子は大きく、黒くなるのだと教えてくれた。大きくなった後、ある日を境に自分たちもオヤになるのだという。まるで想像がつかない話だったが、確かに無限に大きくなる子を見たことはなく、皆、死ぬかオヤになるのだ。だが、本当だろうか?オヤの足は細く、自分たちより少ない。自分に羽が生え、空を飛ぶ様も分からない。

 「男のオヤを見かけなかったかい?」とそのオヤは言った。男のオヤとつながりたい、と言っていた。そうして、卵を作るのだと。

 「お前さんみたいな、かわいい男の子になるといいね。ああ、そうだ、ムギを持ってこれなくてごめんね。まぁあれも、不思議なものでさ、どうしてお前たちは、オヤの糞を食べたがるんだか。あたしもそうだったのかな。さなぎの前のことは、オヤが長くなると、忘れていってしまうんだ。」

 幼虫から成虫になる際に、足の本数が変わるという事は理科で習った。その時は、神経まで溶けて再構成されていることまでは習っていなかったと思うが、後にこの仕事を始めた際に知った。消化器官からすべて、体のすべてが変わる時、神経も全て入れ替わって、それでも個体は自我を保っているのだろうか?
 もちろん、個体に自我があるかどうかと、進捗には関係がない。

 朝が近づてきたが、そのオヤはもう起きていた。男のオヤを探しに行くのだという。「もう少し明るくなって、灰色の雲が見えるようになると、もう男なんてどうでもよくて、とにかく雲に向かって飛びたくて仕方がないのだけどね。その前に、会えないものかな。」

 確かその次の日に、くぼ地で休もうとしていた時に卵を見かけたが、あのオヤの産んだ卵かは分からなかった。チジーに後でその話をしたら、そう信じてあげるべきだと言われた。

 チジーとはたくさん話をした。順に思い出そうとしても、前後して勝手にチジーが出てくるほどだ。チジーの前にも多くのオヤに会ったのに、コケの味と同じで、大抵のオヤは覚えていない。

 ただ、遠くから飛んできたというオヤについては覚えている。確かに羽は幾度もの風を受け、ボロボロになっていた。オヤたちは強い風に流されるためだけにあの灰色の雲の中に飛び立っていく。理由を答えてくれたオヤはいなかったが、オヤたちは朝日の光を浴びるとともに灰色の雲に飛び立ち、やがて夜が近づいて灰色の地面が藍色を帯びる頃に降りてくる。

 オヤは灰色の雲を日中飛び続け、飛び立った場所とは違う場所に降りる。だから子は色々なオヤに会う訳だが、そのオヤは白い花について教えてくれた。白い花は、オヤが死んだ場所に咲くという。

 白い花の話はその前にも聞いたことがあった。コケやムギの合間にまれに咲くという。オヤも子も、それを食べたものはいるというが、うまくはないらしい。コケの方がましだといった子もいると聞いたことがある。羽をボロボロにしたオヤは、その白い花が群生しているのを見たという。

 「風が、どうしても流れていくところがある。俺たちは風に乗る。だから、風が溜まっていく所に俺たちは集まっていく。そうして、そこで朽ちるやつも多い。そこに、白い花がたくさん咲いている。咲いているんだ。」

 「オスもメスも関係なくそこに飛ばされてしまうってことは、そこで生まれるお前らもいるんだ。想像できるか?白い花に囲まれて生まれたお前らは、体が黒く大きくなることもないまま、オヤにもなれず死んでいく。たまに、飛んできたオヤのエサだけで育つ、運のいいヤツもいる」

 「あそこは、こんなに薄い雲じゃない。雲すら分厚くて黒い。風が溜まっていくからな。そして、黒い雲を見ていると、飛びたくて仕方なくなる。空に何があるわけでもないのに、俺たちは黒い雲の中に飛び込んでいき、そして死んでいく。地面には食えもしない白い花がやたらあるばかりだ。あれが死だ。」

 「俺はたまたま運が良く、変わった風に乗ってそこから外れることが出来た。今でもあの黒い雲を思い出すと体がたぎる。でも、そうだな、地面も空も灰色な、これくらいの方がいい。」

 後に、さなぎになる前に一度白い花を一輪、遠くに見かけることが出来た。空とも、大地とも、コケとも違い、それは真っ白だった。茎が細く、まるで灰色の空に浮いている白い鳥のようだった。

3.白い雲

 局地的に雨が観測されている。テラフォーミングで開拓された大抵の惑星は、地球ほど水分が多くなく、故に雨はまれだ。雨が降るとスモッグを形成していた粉塵が一度地面に落ちてきてしまい、一時的に生態パッケージのルーティンが崩れるが、せいぜい一両日で粉塵は乾燥しまた舞い上がる。進捗に大きな影響はない。
 進捗と言えば、除染パッケージにはない植物が芽を出したのを観測した時、保守課全体はかなり動揺したというのが記録に残っている。本社の分析結果では、虫の死骸による土中栄養の高まりで在来種がたまたま成長したらしい。白い花を咲かす一年草なので、結果的には顧客へのちょっとしたビジュアル面でのサービスとなった。在来種の種が残存していたこと自体は驚きだが、毒性もなく、これも進捗には影響がないそうだ。

 その日のコケは普段より柔らかく感じられた。これなら食べられないこともないな、とも思っていた。だが、良かったのはそれまでで、果たして、灰色の空から、冷たいものが降ってきた。体は冷え、動きが悪くなる。息も苦しい。地面が柔らかくなっていくのも歩きにくくて嫌だった。早々に近くの穴に逃げ、空からの冷たいものも避けられるくぼ地でじっとしていた時に、一人のオヤが降りてきた。

 「アメだな」そのオヤは言った。そして、お尻からエサをくれた。これだけはどうしても我慢できず。がつがつと食べてしまう。オヤはそんな自分を見ながら話し始めた。「私が子だった時にも、アメは一度あった。よく分からないが、一時的なものだ。だが、問題は次の日だ。」「次の日?」「空が灰色にならない。赤く、青く、そしてまた赤くなる。そして、どうしてか、オヤは空を高く飛べなくなる。それなのに、体は熱くなる。そして、夜は、普段より寒くなる。」

 「死ぬオヤも普段より多い。オスメスでつながるオヤも多いから、死ぬのは気温なのか体力を使い果たしてしまうからなのかは、私にも分からない。だがおそらく、明日そうなる。空を高く飛べなくなるのが、恐ろしい。」

 「貴方はなぜ、まだ経験したことのないことを知っている?」食べ終わった後で、オヤに尋ねた。オヤは羽を少し震わせてアメという冷たいものを落とすと、「話をし続けるからだ。私が子供だった頃、あるオヤが教えてくれた。オヤたちは散り散りに飛ぶが、こうして子に会うことで情報を子に集積できる。あるいは、子が知っていることを聞き、別の子に教えることができる。」

 「もちろん、さなぎを経ると、色々なことを忘れる。だが、繰り返すことで、子らに知られていることは増える。」オヤの羽は湿っており、チキチキと音が鳴った。「私が子供だった時、空の灰色はもっと濃かったと思う。であれば、いつかは灰色でなくなるるのか?それはアメの次の日のようなのか?知らなければならない。」

 「知識を付け、そして教えてくれたオヤを区別しろ。その区別で、分かることが増える。」私はしばらくして答えた。「ではあなたは、チジーだ。」チキチキという音は、他のオヤにはない羽の音だった。「分かった。お前は身体が大分黒い。オヤになるのも近い。」そしてチジーは言った。「知っていることを教えてくれ。何でもいい。私がさなぎの時に忘れたこともたくさんある。」

 空の灰色が濃かったというチジーの話で、私は遠くから来たオヤがしていた白い花の話を思い出した。チジーはそれを静かに聞いていた。知らないことだった、と言っていたはずだ。そして最後に、こう言った。「明日、空に雲がない時に、空を飛べないとすれば、やはり私たちは、灰色の雲に惹かれているのだろうか。」

 翌日、光が差し、体が温まり始めたころ、果たしてチジーのいう通り空は低いところの一部が赤く、高いところは濃い青だった。灰色の空ではない。

 「なるほど、これは困ったな。」チジーは先にくぼ地から出て、そう言った。

 「確かに、高く飛べる気はしない。普段とは違う。それでいて、体は熱いな。光が強い。」確かに普段より暖かかった。体がよく動く感じがする。

 近くのくぼ地からオヤが飛び立ったのが見える。大きい。「メスだな」チジーは言った。「オスがたくさん集まろう。暖かい日の方が、オスは活発だ。体が熱いほどにな。今日はしかも、高く飛べない。絶好の機会だ。」確かに別のくぼ地から、先ほど飛び出したメスと思しきオヤめがけて、別のオヤが飛び出していた。

 チジーはどうするのか尋ねると、「ムギをとってくる」と答えが返ってきた。「卵作りなど、老いた自分がやることじゃない。それより、話が本当なら、夜は冷えるはずだ。ムギがいる。」

 昼にオヤがいる荒れ地を歩き、コケをかじる。前日よりは歩きやすくなっていた。昼にオヤがいるのは不思議な光景だった。オヤは、オスがメスに乗っているか、当てもなくムギを求めて低く飛んでいるかだった。コケはまだ柔らかく、それ自体は悪くはなかったが、普段とは味が違うように感じられた。空に灰色の雲はなく、白い雲が高くに見える。白い鳥も、あんな色なのだろうか。

 しかし、空がまた赤みを帯びてきた頃、空気は急に冷え始め、普段以上に強い風が吹いてきた。暖かく明るかった世界は終わり、地面は黒く乾いた砂を巻き上げ始めた。冷たく、痛かった。裏切られたような気持ちだ。昼の明るかった時のことを思い出す。空に浮いていた白い雲のことを。

 それともあれが白い鳥だったのだろうか。死をもたらす、白い鳥。

 翌日、地面は砂を巻き上げ、空には普段よりも色が薄いものの灰色の空が帰ってきた。知っている空、知っている世界だった。くぼ地には、冷えに耐え切れなかった子もいた。くぼ地から出ると、乾いた砂にまみれ死んでいるオヤが見えた。既に空に飛び始めているオヤもいたようだ。

 チジーには会えなかった。ムギを食べて力をつけ、生き延びているのだと信じている。

4.白い糸

 観測ドローンが鳥形なのはその方がプロペラが少ないからだと思っていた。しかし今手持無沙汰に読んでいるマニュアルによると、昆虫が本能的に鳥を避けるからだという。戦争ですべてが焼け、今や動物は昆虫しかいない世界でも、それは有効なのだろうか。さなぎを嘴でついばむようにサンプル採取するのも含めて、開発陣のシャレでしかないのではないか。
 「幼虫と成虫の間で体組成を変える事で、二種の除染効果を発揮する。」理屈は分かるが、単なる保守課のフロントには遺伝子操作によるこの生き物は魔法にしか思えない。結果的に「苔類およびイネ科と変態昆虫による除染パッケージ」は戦後の惑星除染市場においてトップシェアとなった。
 生態型除染パッケージは、徐々に壊れ再投入が必要となるナノマシンと違い、一度根付かせてしまえば繁殖によって個体数が維持され、運転費用が安いのが強みだ。保守課が時たま鳥型ドローンで地表のチェックを行い、さなぎをサンプリングして放射線による遺伝子への影響を調べる程度でいい。 

 いつもの朝とは何もかもが違った。猛烈な吐き気を感じていた。ムギに登って風に当たりたかったが、近くにムギはなかったので、穴倉の中にいることにした。吐き気はいよいよひどくなり、口からダラダラと糸が出始めた。それを自分の体にかけていく。怖がることはない、とチジーは言っていた。

 チジーにどう言われようと、怖かった。どうして自分が糸を吐いているのか、それをどうして自分にかけたがるのか、分からないのだ。そうしたくてたまらない、だが、どう考えてもおかしい。吐き気が止まらない。自分でないみたいだ。糸は生暖かく、湿気を帯びている。

 ひどい吐き気で記憶もなかったが、いつの間にか、吐いた糸が乾いていくことによって自分の体が保定されていた。動くこともできないまま、最後に吐き出された糸が顔を覆っていく。当然だが目も開けられない。真っ暗闇だ。

 光も風もなく、何も食べていないと、時間感覚がない。糸によって保定されていたはずの体も、感じることが出来なくなっていた。体はどこだ?何もない。温度もない。光もない。風も、音も。

 急に、白い鳥のことが思い出された。白い鳥はさなぎを食べる。食べられるとはどういうことだろう?コケや、ムギや、オヤのくれる食べ物を食べると、それらはなくなってしまう。食べられるとは、なくなってしまうことなのだろうか?そうだとすると、今と何が違うのだろう?

 自分の中で何かがうごめいていると感じる一方で、何も感じられない。動かなくなったオヤも、こうだったのだろうか。

 そんな不安も、いつしか消えてしまった。不安が、ではない。自分が消えてしまったのだ。今にしてはもはや何も思い出せない、闇。

 そうして、永遠の闇の中にいたはずだった。

5.黒い夜

 意識の闇が晴れ記憶を手繰りよせているうちに、活力もまた湧いてくるようだった。徐々に乾いてきた羽に、自分の力が伝わるのが分かる。日も高い。飛び立つ時が来たのだろうか。

 背中にグッと力を入れると、羽が広がり、風を受けるのが分かった。その急な力にあおられ、背を反らす。

 灰色の空が見えた。雲に覆われた、何もない空が。ムギも、コケも、白い花もない、灰色の世界だった。だが、その色を見た途端、足は地面を離れ、上空に向かって一心不乱に羽ばたかずにはいられなかった。

 行くしかない。

 力を入れ、どんどんと上昇していく。コケやムギが遠ざかる。灰色の地面と、灰色の空が遠くで交る。だが両者は決定的に違った。灰色の雲へ、行かなくてはならない。それは遠く、長い道のりに感じられた。降りればムギがある。なぜ上っているかは分からない。ふと下を見ると、小さな白い点が見える。白い花だ。

 上に、雲に行くしかない。

 雲の中に入ると、それまでとは違い、強い風が吹いていた。羽が思うように動かせないばかりか、風を受けて体が流されていく。どこに行くのかも皆目分からないまま、ただ、風を受け、灰色の雲を吸い込んでいく。だが、地面にいた時のような、どうしようもない衝動は薄れていた。灰色の雲を吸う事で、何か安心する。これをするために生まれたのではないかという手ごたえが不安と衝動を取り除いていく。

 不安が薄れ、灰色の雲の中にいることに少しずつ慣れていくと、この雲の中には自分と同じように雲の中を流されていく多くのオヤがいることが見えてきた。同じ方向に流されるオヤもいたが、うまく風に乗って位置を変えているように見えるオヤもいた。自分にもできるのだろうか。今はとてもそうは思えなかった。

 次第、風が弱まっていくのを感じた。ようやく体を動かせるかとも思ったが、どうやら日没も近づいてきているらしい。灰色の雲は黒味を帯び、体は少し冷え始めていた。もう長く飛び続けることはできない。

 灰色の雲から抜け落ち、地面に近づいていく。羽が空気を受けるから、力を入れなくとも落ちるのはゆっくりになる。そうか、こうしてオヤは降りて来ていたのか。

 まもなく完全に日没になるという頃、どうにか地面に帰ってきた。ムギを見ると妙に安心した。その穂先に降り立ち、ムギをかじる。もう空はほぼ真っ暗で、見上げても自分がどうしてあんなに衝動的に飛びあがっていったのかも分からない。

 いずれにせよ、このままムギにしがみついていては、夜風を受けて一晩過ごすことになる。目を凝らし、地面のくぼ地を探す。どうやら休めそうだ。

 「メスか?」くぼ地に入った途端、先に中にいた別のオヤが訊ねてきた。「違う。」「メスじゃないのか。どっか行け。」「ここで休みたい。」「ずいぶん若いオヤだな。メスに乗ったこともなさそうだな。」「オヤになってからメスに会ったこともない。」「そうかい。じゃあまた明日飛ぶことだな。」「メスに会うために飛ぶのか?」会話が止まった。しばらくして、答えが返ってきた。

 「飛ぶのに理由なんかない。だが、飛んだ後メスにも乗れないんじゃ、本当にどうしようもない。」どういう意味かよく分からなかったが、飛ぶのが楽しい訳ではないことは共感できた。そのまま、互いに一晩中黙っていた。

 朝が来た。気温が上がり、体を動かせるようになると同時に、くぼ地から見える空を見ると落ち着かない気分になった。それは昨日のオヤも同じようで、自分より先に雲へ飛んでいってしまった。

 また今日も、自分も、雲へ飛ぶのだ。理由は分からないが、そのことだけは理解していた。

 苔類もイネ科の一年草も、ともに地中の汚染物質を吸収するようにできている。それぞれの吸着する物質は違う。イネ科が吸収した汚染物質はその実に集まり、成虫がそれを食べる。結果、成虫が空中の汚染物質の雲を飛ぶ際に回収してきた粉塵と体内で化学反応を起きる。成虫はその化合物を消化できないが、幼虫はそれを安全に消化し、無毒化する。
 オーナーへの進捗レポートに問い合わせの返信が来た。営業ではなく自分に来るのは珍しいが、なぜ成虫は自発的に空中の汚染物質に飛び込んでいくのか、というものだった。蝶が花の色に本能的に反応するように、汚染物質の持つ灰色に反応し飛び立つように設計している、とパンフレットに書いてあるはずだったので、そのまま回答した。

 何日かの繰り返しの中で、雲の中を飛ぶことにも、大分慣れてきた。風を受ける際に背中の力を調節すれば、ある程度流される方向をコントロールできる。それでどこに行きたいわけでもなかったが、かつて聞いた白い花の多く咲く場所へは行きたくなかったので、強い風を受け続けることだけが怖かった。

 雲が暗くなり始めた。夜が近い。昼はどうしても雲の中にいたいと感じるが、雲の色が変わると不思議とその気持ちは薄れていく。背中の力が落ちる前に降りてしまおう。

 雲から抜けきる前に、別のオヤの影が見えた。大きい。なぜか追ってみたくなった。雲を抜けると、はっきりと見えた。やはり自分より大きい。メスだろうか。自分がオヤになってから初めて見る。そしてそのはるか下に、自分達と比較にならないほどの大きさの白い影が見えた。

 白い鳥だ。

 灰色の大地に対して、あまりにも目立つ白い鳥が、自分達のはるか下をまっすぐ飛んでいた。逃げなければ。逃げなくてはならない。だが長く風に当たっていたため、羽ばたいて再度雲へ上がる力が残っているとは思えない。どうするか。自分と白い鳥の間にいるオヤはどうするのだろうか。白い鳥は自分達を見つけるだろうか。白い鳥は静かに、高度を変えないまままっすぐに、しかしゆっくりと飛んでいる。

 下のオヤも白い鳥に気づいているらしく、高度を保つために羽ばたいていた。まずはそのオヤの高度まで下げる。オヤは一瞬驚いたように自分から離れようとしたが、目が合うと離れることをやめた。やはりメスのようだ。体が大きく重い以上、体力の消耗も激しい。高度を保つのが精いっぱいだろう。白い鳥はちょうど真下を通過している。

 もう少し待ってから降りれば、白い鳥は通り過ぎたあたりに降りることが出来るはずだ。日が落ち始めている。暗くなっていくほど、白い鳥ははっきり見える。それと同時に、自分たちの体も冷え始めている。もう羽ばたいていられないかった。同じ高さにいるオヤは想定通り、自分より先に降り始めた。追いかけるように自分も降下する。

 メスのオヤの先に白い鳥が見える。大きい。あれがさなぎを食うのか。ゆったりと、風に負けない力で飛んでいる。オヤを食うとは聞いたことがないが、恐怖は止まらない。メスのオヤに追いつき、白い鳥の飛ぶ方向から離れたくぼ地に降りた。くぼ地に入れば、たとえ気づかれても白い鳥は来られないはずだ。疲れと不安に、くぼ地の中で体を動かすことも出来ない。

 「白い鳥が、いたわね。」メスのオヤが話しかけてきた。「ああ、いた。」「死ぬところだったのかしら?」「わからない。さなぎは食うけど、オヤを食うとは聞いたことがない。」「そうね。いずれにせよ、生き残ったわけだけど。」「けど?」「生きてすべきことをしましょうよ」

 認められた。なぜか瞬時にそう感じた。動かないと思っていた自分の体が、急かされたように相手の背後に回る。これがメスの背中なのか。その背に乗り、腹を付ける。ムギよりも細い足だと思っていたが、力の沸いた自分の足はしっかりと相手をとらえている。そのまま、腹に力を入れると、自分の一部が相手の中に入ったのが分かる。

 メスの体が震え、聞いたことのないルールーという羽音がした。何となしにチジーのことを思い出した。このメスはルールーと呼ぼう。ルールーはつやつやとしている。そのつやつやした体に、自分の足が乗っている。普段あまり使わないかぎ爪のような先端が背中の羽の端を押さえているのが分かる。今、ルールーにしっかりと一体化している。

  一体化している。そうでなければ困る。腹から先にかけて、自分からルールーにかけて、重い液体が通り抜けていく。力が抜けてしまいそうで、しっかりとルールーをつかんでいなければ崩れ落ちそうだ。ルールーの体が震える。液体が自分の腹から抜けていく。震えるルールーの背中だけが見える。


6.白い鳥

 その後、ルールーにも、ルールー以外のメスにも会うことはなかった。ただ子に対してのエサやりは自分でも変わったとは思う。ルールーの子供かもしれない。夜、灰色の雲から降りて来ては、ムギをかじってからくぼ地に入る。子がいれば、糞を与える。

 会った子には白い鳥の話や、アメの話、白い花の話をする。子に聞くと、他のオヤは多くがオスメスの話や、さなぎになる話をするそうだ。それはそれで大事なことだと思う。子らは、話を聞くよりは糞を食べる。仕方がない。チジーのようにはいかない。

 「その話、聞いたことがある。」とある日、子が言った。「空の灰色はどんどん薄くなってる。でも、白い花がたくさん咲くところは、まだ濃い灰色なんだ。そこを目指せたらと、そのオヤは言ってた。」「でも、白い花がたくさん咲くところは、死が待っている。私が子の時にあるオヤから聞いた話だがね。」「そうなんだ、では...」子供はくぼ地の上を吹く風を見ていった。「どこでなら生きていられるのだろうね。」

 オヤに遭遇する機会は確実に減っていた。会うのは子が多く、白い鳥の話、そしてアメの話をする。しかし、アメがなくても空は日を経るごとに次第に灰色が薄れて明るくなっていっているように思われた。自分の気力も落ちている気がしたが、そもそもオヤになって長くなってきた。オヤは長くなるといずれ死ぬ。動かなくなる。

 苔類は昆虫にとっても栄養価が高いわけではないが、脱皮やさなぎ化に必要だ。固い繊維が虫たちを作っている。苔類の摂取が足りないとさなぎ化が遅れ、大型化が進むため、結果的に飛翔能力が落ちる。地上を除染する苔類が相対的に少なくなると、空中に飛翔できる虫は減り、大気の除染は遅れる。除染は常に、生態パッケージ全体のバランスをとって進捗されるように出来ている。
 除染が最終段階まで進めば、成虫の外殻を構成する物質が不足し、生態パッケージの昆虫は自然に死滅する。日光が強くなり、寒暖差が増すと、寒暖差に弱いムギと苔類も減る。

 ある夜、くぼ地でオヤに会うことが出来た。若いオヤだった。そのオヤはしばらくこちらを見た後、「貴方は、アメを知っている方ではないですか。」と訊ねてきた。「アメは私が子の頃にあった。その時、羽がチキチキと鳴る不思議なオヤと話し込んだ。」「では間違いないです。私は貴方から子の時にエサを貰ったことがある。」「本当か。それはすごい。私は今まで、同じオヤと会ったことはないよ。君が初めてだが、残念ながら子とオヤでは姿が違うからね。」「なるほど。でも私は覚えていました。」「ありがとう。」

 次の日、私が動けるようになるより先に、若いオヤは飛び立っていった。最近は体が温まるのが遅い。朝が来るたびに、空の灰色が薄くなっていくたびに、遅くなっていっている。だが、そのうちに体が動き、空の灰色を見れば飛ばねばという気持ちになるのだった。あのオヤはどうして私が分かったのだろう。チジーやルールーのような、忘れがたい何かがあったのだろうか。せめて、名を呼んでくれればよかったのに。自分の名は何だったのだろう。

 灰色の雲の中で、強い風を受けながら、チジーやルールーのことを思い出していた。自分の名は何だったのだろう。思えばオヤになってからも随分と変わった。羽は少しずつ風の中で痛み、着地で足を折った。あのオヤは自分の何を見ていたのだろう。自分は、何が残っていたのだろう。

 余計な考え事のせいで風に変に乗ってしまい、不意に体が浮き上がった。灰色の雲がどんどん明るくなる。遂に雲の上に出た。そんなことは今までなかった。灰色の雲を抜けると、空はアメの次の日のように青く、白い雲が浮いていた。ゆったりと飛ぶ、白い鳥のように。そしてそのさらに上に輝く光があった。まぶしいと思ったが目を離せなかった。いや、目を離せなかったのではない。アメの次の日に見た時より、格段に光の強さを増していて、目をやられたのだ。一瞬で何も見えなくなった。体の熱さに任せてでたらめに羽ばたくが、どこを飛んでいるのか。視界が利かないと風が強く感じられる。

 風も分からないまま力任せに羽ばたいた瞬間、羽が風に負けて破れたのを感じた。こうなればもう駄目だ。当然に知っている、羽の傷んだオヤの道は一つだ。このまま落ちて死ぬのだろう。死ぬ。死ぬとは何だろう、知らなかったことばかりだ。灰色の雲の上に、別の空があるなんて知らなかった。誰かに伝えなくては。さなぎの闇は死ではなかったことを。さなぎの闇と死の闇はきっと違うということを。光を奪う白い雲の話を。白い雲は灰色の雲とは違うことを。白い鳥に似て、死そのものなのかもしれないことを。

 だが、死ぬことが避けられなくなると、ルールーと見たあの白い鳥は、思い出しても少しも恐ろしくはなかった。思い出す。必死に羽ばたいていたルールーや自分とは違い、風の中をゆったりと、己の重さと釣り合いながら、一度も羽ばたくこともなく空に浮かんでいた。青い空に浮かぶ白い雲の夢を背負う、白い鳥。

 懐かしい息苦しさがあった。おそらく灰色の雲の中に入ったのだろう。この雲を抜けると、白い鳥もいるはずの灰色の大地に、落ちる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 たしか、31になって久々に(6年間くらい間が空いてた)書いた奴です。色々試験的な要素を散らしたのですが、好きな人は好き、全然面白くない人は全然面白くないという作品になり、ある意味で書いた意味がありました。すごい好きと言ってくれた人がいたので復活。ちなみに自分は大して好きではないのですが、嫌いではない変な距離感の作品です。(1万字も読ませてひどい言い草)

 章ごとにタイトルをつけたり、ちょこちょこと直しました。細かいところを直しただけすが読みやすくなったはずです。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。