光さす庭 ~メモ~

もちろん、ヴァンパイア城を作ってはならない。だが、完全な野外劇で、オープンに構える事はいばらの道だ(不可能ではないしそれを望んでいるオーディエンスは多いが、コストの高い話であり、長い時間をかけていくべきだとは思う)。光さす庭があり、外とのつながりが維持されながらも、確たる城であること…やや安藤忠雄的な思想の城を21世紀に建てるのも、荒っぽく言えばダサい気はする(安藤もウテナも90年代の産物だろう)。

どうすればいいのだろう?

この問題には答えが無い(少なくとも僕は、「今は無い」と思っている)。以下は前段を補足するメモでしかない。今回はまとめる気もない。いつか書く記事への疑問にさえなればいい。2500字に達した段階でリリースする(した)。

自分だけの城

「思ってたのと違う」未来へ、マガジンとして前号に当たる下記文章からの続きとなる。

要は、自分を輝かせる(間違っても「肯定する」ではない)舞台を、自分なりに作っていかなければならない、という当たり前の話が、世界の垣根を取り払おうとする流れの中で再確認されており、重要度が増しているぞ、という警鐘であった。

では、その舞台をどう作るかという事については、一言「Vtuberを想像すればよい」と書いたが、要は自分を容姿含め作っておき、それを露出させて望む者を呼ぶという手法が手っ取り早くて良いぞ、という事だ。劇場の客を増やしつつ、余計なものは排斥しやすい、攻防一体の手法。

そもそも何らかの露出は必要だ。露出は能力に勝る(自撮りをアップしない可愛い子と、自撮りをアップするほどほどの子、フォローの多さはどちらか聞くまでも無い)。だが、無鉄砲な露出は野外劇の中で石を投げられて死んでいくだろう。防壁を気付く必要はあり、攻防は一体化している必要がある。もちろん、メジャーな第一線まで進む事を考えれば防御をしている暇などないが、投げられる石は留まる事を知らないだろう。

石が投げつけられないような、社会的な成熟があれば話は別だし、僕はその未成熟さを以て冒頭の「(少なくとも僕は、「今は無い」と思っている)」と考えているのだが、要は、当座、コミュニティ化はある程度必要だろう。あるいは、何らかの技術的な、あるいは精神的なExitがあれば…とは思うが、そうした世界観は別の人に譲ろう(樋口恭介さんがこういう事に関しては熱く語られているので参考にされたい)。

なお、小規模化という形のExitはいくらでも可能だが、これは未来を描くマガジンのためのメモだ。サラリーマンを辞めて九州にexitした若者がWebで人気で、見ていると上手い事Opexを下げてそれを賄える程度のファンコミュニティの長になったなと思うが、ただこれは、未来を作る話ではなさそうな感触も一部ある。チャンスを失う形の独立は危険であり、前進的なコミュニティではありたい(もちろん、いつかその前進性は維持できなくなる可能性がある事は過去にも書いているけれど、今は維持できるし、維持しなければ未来はないのだ。その事も書いている。)

光さす庭

コミュニティが必要であるとはいえ、ヴァンパイア城の住民になってはいけない。これについてはもう、これ以上は無い。コミュニティに染まり、他者に対して攻撃しかできなくなる者に、未来はない。

ヴァンパイア城にならないよう、光を中庭に入れるべき、クローズ化されたコミュニティの風通しを良くするべきだ。だが、これはなかなか難しい。光だけが入るわけでもなく、雨風も入り込み、不快感や城を傷める事もある。

旅をする

冒頭で書いた通り、だからと言って「外界との境界を曖昧にした建造物」という1990年代的な建築論が人間を豊かにするとも、正直あまり考えられない。おためごかし的な響きもある。安藤建築はハッキリ言って「入るための建物」であって「出る事も楽しい建物」ではないので、それこそ本当にヴァンパイア城なのかもしれない。

ひょっとすると固定的な城を持つこと自体が古いのかもしれず、我々はもはや旅をし続けなければならないのかもしれない。確かに、自分の劇場を持たずに、あるいはサーカスのようにテントを持って、移動するスタァとなる事も不可能ではない。そういう意味では小規模なexitにも可能性があるのかもしれない。

しかしだからといって例えば「同じ会社に10年いたら終わりよ」みたいな言説も違うよなとは感じる。

ベースを構えたうえで、旅をするべきなのか。結局「コラボの多いYouTuber/Vtuberが将来性も含めて正解」みたいな話にも聞こえるし、どうも嘘くささも漂う。多分この「コラボが出来る」事の能力値をテーマにしていないからだろう。

愛されの文法について

城も旅も可能な「偏在性」を持つ事が解決法だし、前段の「コラボが出来る事の能力値」とは要はそういう事だろう。

それは、パッと考えれば、礼儀正しさと可愛さではないか。いわゆる「フッ軽」は重要なようで、そこを重視して礼儀正しさが失われるケースもあり恐らくは二の次だろう。

…マジか。「21世紀はオープンワールドなので、愛される人が勝てます。なぜならオープンワールドなので、愛してくれる人は無限に見つかるので、愛されるのであれば他の能力は不要だからです」。…「虐殺器官」だ。

と、ここで急に「虐殺器官だ」と言われても当該図書既読者にすら意味不明な気がする。現実にはびこり、あらゆる文脈の分断を越えようとする「虐殺の文法」とは別に、ルツィアのような「愛されの文法」を身に着けている者もいるだろう…というのが僕があの作品に感じる事だ。ルツィアは物語においてビックリするほど役に立たないのに、それでもひたすらにジョン・ポールからも主人公からも好かれる…これは「愛されの文法」使用者としか言いようがないのではないか。「理由がないと思われる愛および虐殺には、対応する器官が、システムがある」。

しかし、虐殺器官では、ルツィアだけが唯一動かない。ルツィアだけが、光さす窓を持つ家に居続ける。愛されの文法を持てれば城という防御機構も不要であり、であれば場所は意味を持たないからだ。

…冒頭の「どうしたらいいのだろう?」の答えはこれなのかもしれない。オモロさとかカワイイとか、総じたスタァ性とかも、それを発揮したり守るための城や旅も、全ては「愛されの文法」の代替案でしかないのかもしれない。

いずれ疑問は変わった。光さす庭は、城は、しょせん代替物でしかなく、やはり「答え」はないという可能性がある。そして、冒頭の問題はこれをもとにブラッシュアップする必要がある。メモの段階としてはこれ以上はない。2500字も突破した。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。